今年の秋は本を読む。
そう言って一冊の文庫本を購入してきた彼女に、勝己は舌打ちをした。無駄遣いしやがって、と吐き捨てれば「読むから無駄じゃないですー」と舌を出す。
確かに、読めば無駄ではないだろう。勝己の部屋にも本は数冊ある。読書家の父に似たのか活字を追うことは苦にならないし、頻度は少ないものの、本を読むことは嫌いではなかった。だから、本を買うこと自体を無駄だと言うつもりはない。
しかしそうは言っても、やはり読まなければ無駄は無駄なのだ。
布団の中で本を開いたまま、お茶子は眠っている。なんとも幸せそうな表情で、「おもち……」などと言いながら。
「……これで何日目だテメエ……!!」
結婚して一年が経った。彼女に対する愛情のようなものは薄まることなくそこにある。しかし時折、「どうしてこんな女と結婚したのだろう」と自問せずにはいられなくなるのだ。どうしてこんな、間抜け面でよだれを垂らしながら、読書を始めて五分も経たずに爆睡する女と結婚したのだろう。理由なんて「惚れたから」に他ならないが、それを認めるのは負けた気がして腹立たしい。
「このクソボケ、ざけんなカス、結局無駄だろうが」
ブツブツと小声で文句を言いながら、彼女の手から文庫本を引っこ抜き、代わりにミトンを嵌めてやる。この動作も秋に入ってから連続して五回目だ。初めこそ疲れているのだろう、起こさないようにと気を遣ったが、五日続けばその気も失せる。少々乱暴にしても起きる気配すらないのだから、配慮してやるだけ無駄だったのだ。
引っこ抜いた文庫本を、ベッド脇のテーブルに置いた。書店のカバーがかけられたそれはタイトルがわからない。特に気にしていなかったが、これほどまで強力に眠気を誘う内容に少し興味が湧いた。カバーを外す。暗い色合いの表紙だ。はじめの数ページを捲ってみると、どうやら刑事が主人公らしい。連絡を受け、急いで事件現場へ向かう様子が書かれている。
刑事もののミステリー小説だ、それもえらく硬派の。なぜよりによってこれを選んだのだろう。お茶子には合わないだろうに。
ぺらり、ぺらりとページを進める。不可思議な遺体と、連続する殺人事件。いかにも怪しげな容疑者たち。
気づけば外は白んでいた。
勝己は幸せそうに眠る妻を見、すっかり読み終えた文庫本を見、読後特有の浮遊感に揺られながら、本をテーブルに置いた。
◆
目が覚めたら朝だった。当然だ、夜に眠ったのだから。
手にはミトンが嵌められていて、またも彼の世話になったことを知る。しまったなあ、さすがに怒っとるかなあ。伸びをしながら起き上がり、あたりを見渡す前に勝己の姿が目に飛び込んできた。ベッドに座り、足を組んで俯いている。
「あれ、ええと……勝己くん、おはよう」
返事はない。返事はないが、顔がゆっくりとこちらを向いた。怒っているのはいつものことだが、なんとなく疲れと達成感が見える。
「どうしたん……?」
「……よく聞け、お茶子」
「は、はい」
そうして彼は、テーブルの文庫本を手に取った。書店のカバーが外されているが、先日お茶子が買ったものだ。読もうとしては眠ってしまうので、五日経った今でも十ページほどしか読めていない。
見せつけるように表紙をこちらに向けて、勝己は真剣な表情で言った。
「犯人は同僚の刑事」
「えっ」
「動機は法で裁けない悪人が許せなかったからで、殺害方法は相手の行った悪事に沿って毎回変えていた」
「ちょ、ちょっと待……」
「あと共犯が一人いる。同じく刑事の」
「待って?! 勝己くん待って?!」
ミトンをつけたままの手で縋り付く。いつもの数倍目つきが悪いのは、徹夜でこれを読んでいたからか。いや今はそうではない!
「ネタバレ! いま! 全部!! なんてことを!!」
「どうせテメエ読まねえんだろが! 毎回毎回寝落ちやがって、誰がソレつけてやってると思っとんだ!」
「そ、それは、それはそうやけどでも……!! 」
フン、と鼻を鳴らして、勝己は本をテーブルに戻した。わなわなと震えながら、お茶子は彼の一挙一動を見守る。
信じられない男だ。結婚して一年、勝己に対する愛情は薄まることなくそこにある。しかし「どうしてこんな男と結婚したのだろう」と思うことは確かにあって、今はかつてないほどにその思いが強い。
「ひ、ひ、ひどい……!」
「うるせえな、本代が無駄にならなかったことを喜べ」
「地道に読むつもりやったもん!」
「あの調子で終わるわけねえだろ」
欠伸をし、彼が体ごとこちらを向いた。気だるげな動作で体の中心を押され、起きたばかりのはずが再びベッドに沈む。勝己も隣に寝転んだ。腕と足が巻き付いてくる。
「なに! ちょっと! 私怒っとるんやからね?!」
「こっちの台詞だクソボケ」
「はあ?!」
「毎日毎日先に寝こけやがって」
反論を述べる前に腕が締めつけてくる。ぎゅうぎゅうと、しかし痛くない程度に加減されたハグは、付き合っていた頃に勝己がよくしてきたものだった。
怒りが萎んでいくのを感じる。我ながら甘いと思うが、夫が自分を甘やかさない分、妻として甘やかしてやりたいのだ、と言い訳をしつつ彼の顔を覗き込んだ。
「……爆豪くん」
「誰が爆豪だ死ね」
「間違えた、なんか昔みたいやなって思ったらつい。……勝己くん、寂しかったん?」
ミトンがついたままの手を背に回す。んなわけねえだろ、と口では言うものの、抱きしめる力が強くなったので図星のようだ。
ここ数日、お茶子が早々に眠ってしまうためにこうして抱き合って眠ることもしていなかった。それが不満だったらしい、寝不足も相まってか甘えただ。
「秋はなんだか寂しくなるもんね。寒いし」
「違うっつったろ!」
「はいはい。……って寝るの? 私起きたばっかりなんやけど!」
「うるせえ、そもそもテメエのせいだろが。付き合え」
「ええ……いいけどさ」
こういうときのわがままは、言い出すと聞かないのだ。どうせお茶子より先に起きて家のことをしだすのは目に見えているし、素直に従って目の前の胸板に擦り寄った。
よほど眠たかったのか、久々の徹夜が堪えたのか、そうして数秒もしないうちに寝息が聞こえてきた。規則的な呼吸音と、穏やかな心音。世間で恐れられるヴィラン風ヒーローの、こういった人間らしい一面がお茶子は好きだ。
改めて、頬を胸元に押し付ける。ふふと笑ってお茶子は目を閉じた。
◆
◇
「おい」
乱暴にかけられた声に振り向けば、ぼすりと額に何かを押し付けられた。
「なに?」
「次から読みやすさ考えて買え」
渡された物をよく見ると、彼の実家の部屋の蔵書だった。有名な海外の児童書だ。読んだことはなかったが、少年の冒険譚だと聞いたことがある。中を捲れば程よい字の大きさで、文体も柔らかかった。これならば、あの文庫本のようにすこんと眠ってしまうようなことはないだろう。
「勝己くん、これわざわざ取りに行ってくれたん?」
「思い上がんな、用のついでに決まってんだろ」
「ありがとう。ネタバレしたの気にしとったんやね」
「ちげぇわ!! ポジティブかふざけんな!!」
目を吊り上げた勝己を躱しつつ、本を胸に抱く。真相は後日義母に確認するとして、今年の秋は本を読もう、そして夫を構い倒そうと心に決めた。