スティーブン・A・スターフェイズの格好悪い一日

ばさり。音がして直後、何かが優しく肩に掛けられた。頬に当たるふわふわとした感触には覚えがある。備え付けのブランケットだ。ぼんやりとした思考回路でもそれくらいはわかったが、誰がそんな気遣いをしてくれたのかまでは思い至らなかった。

「……お疲れ、スティーブン」

低めの優しい声。かすかに香るのは紅茶の匂いか。そして頭に載せられた大きな手。人間離れした力を持つはずのその手は、しかしスティーブンの頭を握りつぶすようなこともなく、いささか弱すぎるほどに軽く髪の毛を撫ぜた。
クラウスだ。そこにきてようやっと、スティーブンは気遣いの主を覚った。そもそも考えるまでもなく、彼の所属する組織内でこんなことをしてくれるのはクラウスとそれから彼の付き人、頑張れば最近入った新入り二人ができるかどうかだ。加えてスティーブンの頭を撫でられる人間なんて更に限られる、というより一人しかいない。
こんなことにもすぐさま気づけないほどに、スティーブンは疲れきっていた。デスクに頭を預け、腕を枕に眠る今も、まだ残された仕事をこなさなければと脳だけは起きている。最後に眠ったのは何日前だったか、ここまで忙しいのは久方ぶりだった。各種書類の処理に追われ、作業半ばに街の騒動に駆り出され、その騒動に関する書類がデスクに積まれ、の繰り返し。馬鹿騒ぎするのはいいが、タイミングをもっと考えてほしいものだ。
ああ、前が見えない。書類の塔でできた壁がどこまでも高い。もはや笑うことしかできなかったスティーブンは微笑んで、直後、紙に囲まれたデスクに突っ伏した。
そういえばそのとき、近くにクラウスがいた気がする。大丈夫かと何度か尋ねられ、大丈夫だと何度か答えたのだ。すまないクラウス、僕はなにも大丈夫じゃなかったみたいだ。

動かない体に、紙がこすれる音が届いた。ペーパーウォールの切り崩し方を考えていたのだろうクラウスは、ふむ、と頷いてタワーのひとつを自分のデスクに運んでいった。
離されてしまった手が名残惜しいが、ペンを走らせる音は紛れもなく、壁が取り壊されていく音だ。あとは任せろと言われたような気がして、スティーブンは安心して意識を手放した。

 

 

目が覚めたとき、そこはまるで地獄だった。衛生兵、と叫びたいのを飲み込んで周囲を見渡す。
ペンを握ったまま机に伏せるザップ。その横で何事か呟きながら虚空を見つめるレオナルド。水槽へ向かう途中で意識を失くしたのであろうツェッド。

(巻き込まれたのか、……いや、僕が巻き込んだのか)

鳥のさえずる声と窓からさす日の高さから見て、いまはたぶん明け方だ。スティーブンが寝落ちたのは確か昼過ぎだったから、彼らは恐らくそのすぐ後から、ずっと作業をしていたのだろう。目の前にあったペーパーウォールはすっかり跡形も無く、代わりに彼らの前に処理済みの書類が山積みになっていた。

「目が覚めたかね、スティーブン」
「クラウス」

紅茶を片手に、クラウスが立っている。彼はレオナルドの様子に気がつくとそっと歩み寄り、視界を塞ぐように手を翳した。かくりと首を下げ、レオナルドは眠りについたようだ。

「……まるで魔法使いだな」
「?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「そうか。……ギルベルトがいれてくれたものだ、飲むといい」
「ありがとう、クラウス」

受け取ると香りが鼻孔をくすぐる。クラウスの匂いだ、といまだ寝ぼけている頭で思った。

「……無理をさせていたようだ。すまない」
「僕が好きでやったことだから、君に謝られることじゃあない。気にするな」
「しかし」
「手伝ってくれただろ、君も、そこの三人も。充分すぎるくらいだ」

クラウスが困った顔でこちらを見つめている。言いたいことがあるのだろう。長い付き合いだ、それくらいはすぐにわかった。

「……次からは、もう少しはやく君たちに頼ることにするよ。だからそんな目で見ないでくれ、浄化されそうだ」
「! うむ、そうしてくれると嬉しい」

途端に表情が晴れたのに、やはり消え去ってしまいそうだと思った。クラウスは純粋で清らかだ。大の男に使う言葉ではない気もするが、事実そこらの少年少女より彼はよっぽど澄んでいるのだから仕方がない。惚れた欲目を抜きにしてもだ。
ーーああそうだ、僕は彼に惚れていたのだっけ。

「……クラウス」
「なんだね、スティーブン」
「凄まじく疲れた。囲まれるくらいに仕事が溜まったのは初めてだ、まだ寝足りない」
「そうか、そうだな……帰ってよく休んでくれ。明日は一日休みを取るといい」
「本当かい? そいつはありがたいな…………いや、そうじゃないんだクラウス。僕が言いたいのは」
「? 君に休息が必要なのは事実だろう」
「クラウス。……キスをしてくれないか。僕はそれだけで、死ぬほど元気になれる気がする」

目が見開かれる。それはそうだ、友人に突然キスをせがまれたらそんな顔にもなるだろう。そして考える素振りを見せたあと、クラウスはとんでもないことを言った。

「……いいのだろうか。私が、君に」

そんなことをしても、いいのだろうか。
思わず紅茶を落としそうになって、しかし残った理性がカップを支えた。三人の尊い犠牲を出してまで完成させた書類を、汚すわけには行かなかった。

「……いいのかって、クラウス、僕が言い出したことだよ」

声が震える。これは激務が見せた夢か幻か、それとも本当に現実なのか。とりあえずは紅茶をデスクに置いた。そのまま持っていたら、今度こそぶちまけてしまいそうだった。

クラウスが一歩、こちらに歩み寄る。デスクを挟んで向かい合う距離は近いようで遠い。大きな体躯をゆっくり曲げて、腕がこちらへ伸びてくる。スティーブン。名前を呼ばれたので呼び返した。視界を塞いだ手のひらはあたたかく、なるほどレオナルドが眠るわけだと思った。

「!」

額に柔らかいものが触れて、離れる。ついでに手のひらも外されて、明るくなった視界に申し訳なさそうなクラウスを捉えた。盛大なため息と共に頭をおさえる。僕の緊張はなんだったんだ!

「……クラウス、期待させておいて君な」
「…………すまない。やはりその、してもいいものかと」
「僕がしてくれって言ってるんだ」
「しかし、君と私は恋人でも夫婦でもないだろう」
「君のその実直さは嫌いじゃないし、むしろ好ましいと思ってるが、こんな生殺しがあるか!」

ああくそ。髪をかき乱しながら立ち上がる。焦った声でクラウスに名前を呼ばれるが無視して数歩足をすすめ、目的の場所で立ち止まった。

「クラウス」

振り返りざまに花瓶にさされた花を抜き取って、軽く指を添えるように持つ。クラウスの正面に立ったスティーブンはその場で跪き、彼に捧げるべく花を持ち上げた。

「クラウス、俺は君を愛している。真剣に交際を申し込みたい。都合上、大至急返事が欲しいのだけど、君の思うことを聞かせてくれないか」

面食らったクラウスは少しだけ身を引いたが、スティーブンの真剣な面持ちを見て居住まいを正した。
そうしてクラウスが花に手を伸ばしたとき、スティーブンはてっきり彼が花を受け取ると思ったのだ。しかしその大きな手が包んだのは、花を持つスティーブンの手だった。彼はスティーブンと同じように膝をおり、スティーブンと目を合わせ、そして言った。

「私も、君を愛している。いつからかはわからないが、……気がついたときには、スティーブン。君は私にとって特別な存在になっていた。
……まさか君が、同じように想ってくれていたとは思わなかったが。愛する人に愛されるというのは、嬉しいものだな」

クラウスは手を握ったまま立ち上がった。あんぐり口を開けて固まるスティーブンの腕を引いて立たせ、受け取った花を胸ポケットに差す。

「君の申し出だが、私の答えはイエスだ。それ以外考えられない。……今後ともよろしく頼む、スティーブン」

そして手の甲にキスをひとつ。スティーブンはなんとか言葉を発しようと改めて口を開き、しかしそれを音にする前に、顔を真っ赤に染めてしゃがみこんだ。頭上からクラウスが声をかけてくるが、こんなもの立っていられるわけがあるか!

「スティーブン、どうしたのだ。大丈夫か?」
「……いや、……情けないことに、腰が抜けそうだよ。まさか君にそこまで言われるなんて」

どうしてこんなことになったのだろう。死ぬほど疲れたついでに、ほんの少し本音を零しただけだったのだ。それがどうだ、この状況は。
クラウスはときたま、スティーブンが思う斜め上をすっ飛んでいくのだ。そんなことはわかっていたはずなのに。してやられたスティーブンは頭を抱え、気持ちを沈めようと息を吐く。そんな彼の目の前に、クラウスが再び膝をついた。ラインヘルツ家の人間が、そう何度も人前で膝をついていいものなのだろうか。良くないだろうな。わかってはいても、力の入らない足がいうことを聞かないので仕方がない。

「して、スティーブン。いまこの瞬間から、君と私は……恋人、とうことでいいのだろうか」
「…………いいよ。いいに決まってる。駄目だって言うようなやつが現れたら、僕が全員氷漬けにしてやるさ」
「……いや、それは」
「わかってる、ジョークだよ。それでクラウス、晴れて恋人同士になれたのだから、僕としてはさっきのやり直しをしたいのだけど」

床に尻をつけたままで、格好悪いことこの上ない。かつて相手をした女性たちがいまのスティーブンを見たら、きっと別人と疑うことだろう。クラウスにかかるとこの伊達男は、とたんに締まらなくなるのだ。
赤い髪に指を絡ませる。クラウスはなんの抵抗もなく引き寄せられ、そのエメラルドグリーンの瞳を目蓋で覆った。
その瞬間、スティーブンは感動で涙が出るかと思った。長い長い片思い、叶えるつもりもない望みだった。それがこんな形で成就するとは。新人の半魚人も疲れた顔で言っていたが、人生とはわからないものだ。
ほんの数秒唇を重ね、すぐに離れる。目前に現れたエメラルド。ああなんて美しい。

「最高だ。俺の人生で一番輝く一日だ!」

言うなりクラウスに倒れかかり、スティーブンは十二時間きっかり目を覚まさなかった。同じ頃に息を吹き返した三人組は、目覚めた副官の幸せオーラに揃って首を傾げることになる。