喜びを愛にかえて

レオナルドとミシェーラは仲の良い兄妹だ。足の悪い妹と、それを支える優しい兄。少しだけ特殊なふたりの関係は、ただそれだけのはずだった。あの悪夢のような出来事までは。

 

 

他人の目が恐ろしかった。自分を見るひとたちの目が、レオナルドには自分を責めているように思えて仕方なかった。

ミシェーラに対して「可哀想」と言われることが、彼にとってなにより辛かった。足が動かない、そのうえ視力まで奪われて、ああなんて可哀想な女の子でしょう。そう言ったひとたちは皆、レオナルドを責めるつもりなんてなかったのだ。それでも彼は追い詰められて、諦めずに手段を探し、「取材」の名目でヘルサレムズ・ロットへ向かう決意をした。

贖罪、だった。自分の代わりに犠牲になった妹に対する罪滅ぼし。彼女はそんなことを望んでいないと、それが都合の良い妄想ではないとわかっていても、現状のままでいるのは嫌だった。取り返せるなら取り返したい。そのためなら自身を犠牲にすることも厭わなかったけれど、そうしたら今度はミシェーラが兄と同じことをするに違いなかった。それだけは駄目だ。

「たまには連絡を寄越してね」

別れ際の空港、車いすの前に膝をつき、レオナルドは妹の手を自分の顔にあてがった。取材のため、なんて説明はしたけれど、ミシェーラは気づいている。元々察しは良かったが、レオナルドのこととなると一層聡い娘だった。
ちゃんとご飯を食べること、ちゃんとベッドで眠ること、身だしなみにも気をつけること。わかったよ、と返事をしながら、しばらく見ることはないだろう妹の顔を見つめる。ミシェーラのほうも、形を覚えるかのようにレオナルドの頬に触れていた。

飛行機の時間が迫って、最後に彼はミシェーラを強く抱きしめた。元気でな。情けなくも震えた声に、滲んでしまった怯えを悟られまいとするが、妹はとっくに気づいている。彼は人一倍怖がりで、こうなる前は危険都市HLで暮らすなんてことは考えもしなかったはずだ。それでも妹のために足を踏み出した。そういうひとだ。比喩でも何でもなく、ミシェーラのためならなんだってする。それが、彼女の亀の騎士。

「いってらっしゃい、お兄ちゃん。私のナイト・オブ・トータス。あなたの日々が、うんと楽しいものであることを祈っているわ」

細い腕で、ミシェーラは抱き返した。
祈りに嘘はなかった。妹のことなんて忘れるくらいに、楽しい日々を送ってくれればそれでいい。友達と仲間と、恋人でも作ってくれたら最高だ。毎日楽しく笑っていてほしい。もう、兄の涙は見たくない。

願いにも近いその想いを、レオナルドが知ることはない。彼は手を振って彼の地へ渡る飛行機に乗り込み、別れの寂しさと己のこれからを考え、少しだけ泣いた。

 

 

愛する亀の騎士がミシェーラを守り仰せ、姫が騎士の仲間たちと会話を弾ませるようになって数日。
レオ。レオナルド。レオ君。レオっち。
兄の周りの人間がレオナルドを好きなように呼んでいるのを聞いて、ミシェーラはどうしようもなくうれしかった。兄の日々が、自分に、あの目に縛られるだけのものではなかったと知れたからだ。残念ながら恋人はまだいないようだが、別れの日のミシェーラの祈りは、きちんと神様に届いていたらしい。深い眠りの合間を縫って起き上がるレオナルドに、ミシェーラは尋ねた。

「お兄ちゃん、ここでの毎日は楽しい?」

兄は少しだけ迷った。うーんと唸って首を捻り、何か思い出したのか微笑んで、そうだなあ、とミシェーラの手を取った。ぐるぐる巻きだった包帯は、少しだけ薄くなったようだった。

「ザップさん、いるだろ。あのひとはどうしようもない、ホントにどうしようもない人間のクズだけど、根っから悪いひとじゃないんだ。何回も助けられた」

「クラウスさんには、初めて会った日に命を救われた。そのときに貰った言葉が、いまでも支えになってる」

「スティーブンさんは厳しくて、たまにおっかないけど……本当に無理なことをやらされた覚えはないなあ」

「K・Kさん、あのひとは俺のこと、息子みたいに思ってくれてて。……頭撫でられるのはハズカシーけど、ちょっと嬉しい」

「チェインさん。最初は相手にされてないのかと思ってたけど、前に財布盗られたとき、いつの間にか取り返してくれてた。あんまり表には出さないけど、仲間だとは思ってくれてるみたいだ」

「あと、ツェッドさん。唯一の後輩……つって、俺が守ってもらってるんだけど。美味しいものとか面白いもの紹介したらすげー嬉しそうにしてるから、ついつい連れ回しちゃうんだよなあ」

小さく鳴き声がして、何かがミシェーラの膝の上に飛び乗った。ソニック、とレオナルドが呼ぶと、重みは一瞬で消える。

「あと、こいつ。音速猿のソニック。ライブラに入った日に出会って、ずっと一緒にいる。相棒みたいなもんなんだ」

嬉しそうな鳴き声が返事をした。ソニックは兄の肩の上に落ち着いたようで、そこが定位置なのかと尋ねると、また嬉しそうに鳴いた。

「他にもまだまだ、バーガー友達とかミニサイズの友達とか、武器屋とか執事とか……俺に良くしてくれるひとがたくさんいるよ」

友達と仲間と、それから相棒。支えてくれるたくさんのひとたち。
兄はミシェーラの手を握ったまま黙ってしまった。それなのに、光を得ない視界に兄の表情が見えた気がする。心底嬉しいことがあったときの、へにゃりとしただらしない笑顔。
ミシェーラは思わず笑ってしまった。なんて馬鹿な質問をしたんだろう!

「聞くまでもなかったみたい。楽しそうで安心したわ!」
「あれだけのひとたちが近くにいて、楽しくないなんて言ったら贅沢じゃんか」
「あはは。興味ない、なんて言ってたのにね」

ヘルサレムズ・ロットに行く決意をするまでの、数ヶ月。吐き気がするほどに明瞭な視界を手にしたレオナルドは、毎日のように嘔吐して泣いていた。ごめん、ごめんと何度も謝る兄の背を、ミシェーラは何度も、謝られる謂れはないと言いながら撫でた。「義眼酔い」に疲れ果てて眠る目元は、見えはしなかったけれど、いつも真っ赤に腫れていた。
そんな日々を、こちらに来てからも続けていやしないかと。義眼に慣れても、罪の意識に苛まれて泣き続けてはいないかと。自分を責め続けていた兄のことがミシェーラはずっとずっと心配で、連絡が途絶えてからは余計に不安が募った。
それがとんだ杞憂だったことを、兄の表情とライブラの一同が教えてくれた。そして同時に、感じたことのない寂しさも運ばれてきてしまった。

包帯の上から、そっとレオナルドの手を握る。痛くないよう優しく、包むように。かつて彼の背中を撫でたように。

「ミシェーラ?」
「……愛してるわ、お兄ちゃん。トビーの次に」
「なんだよ、いきなり。惚気?」
「ううん、不安なの。きっとマリッジブルーなんだわ。……安心したばかりなのに、人の心って面倒ね」

きょとんと、兄は首を傾げた。

「私たち、似てない兄妹よね。髪の色も形も、……目の色も変わってしまったから、見た目は全然似ていなくて。同じものっていったらもう、ファミリーネームくらいしかないのに」

お揃いだったブルーの瞳は奪われてしまった。かつて時折覗いた彼の空色が、ミシェーラはとても嬉しかったのだけれど。
ねえ、お兄ちゃん。
兄の手を持ち上げて、頬を寄せた。私、もうすぐミシェーラ・ウォッチじゃなくなるのよ。

「ねえ、お兄ちゃん。近くにいなくても、お揃いのものがなくなっても、心は繋がってる。そう信じてもいい?」

この街は、きっと兄を離してはくれないだろう。そして兄も、ここを離れはしない。直感だった。レオナルドと話し、ライブラの面々に触れて、街の空気を吸って、ミシェーラは確信を持ってしまった。
兄には自由で居てもらいたかったけれど、いざ離れてしまうとこんなにも寂しいなんて。神も人間も、勝手なのは変わらないのかもしれない。

「……ファミリーネームが変わったって、ミシェーラはミシェーラだろ」
「……うん、そうね」
「兄ちゃんだって、住むとこくらいでそう簡単に変わったりしない。カメレオンじゃないんだから」
「……うん」
「今までと、なんにも変わらない。お前が心配するようなことはなんにもない」

包帯まみれの手が顔を包んだ。布の向こうに彼の体温を感じる。
暗く染まった目にはやはりなにも映らないけど、兄とまっすぐ視線があっていることはわかった。

「お嫁に行っても、お前に何かあったら俺はどこにいたって絶対に駆けつけるよ。だってお前の兄ちゃんなんだから」

なにがあっても、駆けつけたところでなにもできなくとも、決して独りきりにはさせない。その言葉のなんと頼もしいことか。レオナルドが言うから、ミシェーラはすべてを信じられる。
いつかトビーが言っていたっけ。君のレオナルドに対する信頼を、ほんの少しでも自分に向けてほしいとか、なんとか。その日が来るのはまだまだ先になるだろう。ミシェーラの兄に対する想いは、もはや日常の一部だから。

「うん、わかってる。私もお兄ちゃんになにかあったら、トビーの自家用ジェットとか、あらゆるものを駆使して駆けつけるわ」
「それはいいよ……お前な、あんまり旦那さん振り回すんじゃないぞ」
「あら、きっとトビーも行きたがるわ。すっかりお兄ちゃんのファンになっちゃったみたいだから」
「は? なんで?」

本気でわからない、という顔をするのがレオナルドという人間だった。当たり前じゃないの。言葉にはせず、ミシェーラはくすくす笑った。

ミシェーラの騎士は普通の青年だ。背が低くてくりんくりんの癖っ毛で、力も成人男性の平均レベル。足は早いほうだけど、飛び抜けてというほどでもない。それでもミシェーラにとっては、誰よりも優しく誰よりも強い、自慢の兄だ。
彼が特殊な目を持ってからも、それは変わらない。ヘルサレムズ・ロットでたくさんのひとに愛される兄はなによりの誇りだ。それなのに本人はまったくの無自覚で、卑屈なほどに謙虚でーーそこがまた、愛おしいのだと。

彼の妹であるミシェーラ・ウォッチは、未来のマクラクラン夫人は、そしてレオナルドの大切な大切な姫君は、愛と感謝を込めて兄の頬に口付けるのだった。