無言のスタートライン

音がした。うっすらと見ていた夢から呼ばれて、お茶子は閉じていた目を開く。意識はゆらゆら揺れていたが、再び鳴った音に覚醒した。

「……なん……?」

ゴンゴンうるさい物音は玄関のほうから聞こえてくる。しつこくて強いノックだ。聞き覚えがあるその音に、お茶子は長く息を吐いた。

時計は午後九時を半分回ったところを指している。お腹が空いたので水を飲んで、もう寝てしまおうと早々に寝床へ潜り込んだのが三十分前のこと。まさかこの音に起こされるなんて思わなくて、少しだけ困惑していた。
なんでこんな、もう外も暗い時間に、連絡もなく来たのだろう。スマートフォンを確認するが、やはり約束も事前連絡も入っていない。……いや、そもそもそれがあったことのほうが珍しいのだが、日が落ちてからのこういった訪問は初めてだったのだ。

ばさりとタオルケットを落とし、変な柄のTシャツにハーフパンツという部屋着全開のスタイルで、音の方向へ向かった。足の裏がぺたぺた音を立てる。
せっかく半分寝ていたのに。面倒だ、このままお帰り願えないだろうか。本当に困るのだ。こちらにも予定がある。からっぽのお腹をごまかすために、朝まで眠るという予定が。

ドアへの暴行は、お茶子が近寄る間もやはり止まらない。ゴンゴゴゴンゴンゴン。あまりにしつこいので、内側からコン! と一発叩いてやる。連打が止まった。

「……爆豪くん、なんか用事?」

返事はない。ないが、ドアの厚みを突き抜けて、殺気のようなオーラが漂ってくる。それでも負けてはいけない。私の安眠がかかっているのだから。

「ねー、私もう寝てたんやけど」

ぺたりとドアに耳をはりつけて、外の様子を伺う。じゃり、と音がしたのは彼が足を動かした証拠だろう。おっともしかして帰るのだろうか、苦節数月、お茶子の想いがようやく届いたのだろうか、なんてありもしないことを思う。
事実、足音はそれきり動かない。代わりにどす黒いオーラが、肌を焼くように纏わりつく。無言でしかも姿すら見せず、ここまで主張してくる人間も珍しい。実は妖怪の類だったりして。
圧迫感に唇を引き結び、ふと、乾燥していることに気がついた。今リップクリームを取りに行けばドアを吹き飛ばされそうだったので、代わりに舌を滑らせる。その瞬間。

ゴン!
一際大きな音に、舌を噛み切りそうになった。

「ふぉあっ、な、び、ビックリした! なに?!」

慌ててドアから耳を離す。それきり拳は降ろされたようで、続く連打はなかった。

気がついたのはそのときだ。
なんだかいつもと様子が違う。これは本当に爆豪なのだろうか。いや、爆豪であることは確かなのだけれど、お茶子の知っている彼とはなんだか違っている気がして。

「爆豪くん?」

声をかける。返事はない、だろうと思っていた。ほとんど確信だった。なのに、またじゃり、と音がして、一言だけ声がした。

「……麗日」

爆豪の声だ。間違える筈がない。なのになんだか違う人のようで、気がついたらお茶子はかたくなに閉めたままだった鍵を開けていた。

途端にドアが動いて、お茶子はそのまま固まった。開かれた扉から飛び込んできたのは砂色の髪と凶悪な目つきと赤い瞳とそれからええと、……とにかく爆豪勝己だった。爆豪勝己が、解錠したドアを即座に開いて、部屋の中に入ってきて、鍵をまわすポーズのまま玄関に立っていたお茶子を胸板に押し付けた。

「え、え? ちょ、爆豪くんどしたの」

こんなことは初めてだった。爆豪は確かに、ちょくちょくアポ無しでお茶子の部屋へ来ていた。開けろ開けろとドアに暴行を加え、根負けしたお茶子が招き入れると狭いだの物がないだの死ねだのと文句を垂れ、そのくせ翌朝まで居座る、なんてことをしょっちゅうしていた。今日の訪問だってそういう、なんだかよくわからない暴君的なそれだと思っていたのに、どうして自分は今、その暴君にしっかりと抱きしめられているのだろう。

「……どしたの、ねえ、びっくりなんだけども」
「麗日」
「うん」
「…………」
「無視はよくないと思う」

ぎいぎい騒ぎながら、爆豪の背後でドアが閉まる。
爆豪はそれきり喋らない。一言も言わないで、強い力でお茶子を抱きしめている。今日彼の口から聞いた言葉は己の名字のみだ。

まるで私に会いに来ただけみたい、と思ったが、あの爆豪がそんな殊勝なことをするだろうか。だけども他に用事があるのなら、大きな声でハッキリと「これこれこうしろそして死ね!」とかなんとか叫ぶはずだ。
自信を持ってそうだとは言えないが、恐らく、たぶん、きっと、爆豪はお茶子に会いに来たのだろう。そして今日は、文句を言いながら部屋に居座るよりも、玄関先でお茶子を抱きしめるほうが気分に沿っていたのだ。
それなら、こちらもそれに則ってやるのが優しさだろう、と思わなくもなくて、お茶子は爆豪の背に腕を回した。ぴくりと一瞬震えて、しかしなんの反論もないので、これはこれでOKなようだ。ええとそれから、これからどうしよう。

こんなこと本当に初めてだ。男の子に抱きしめられるのもそうだし、ましてや相手は爆豪だ、シュミレーションなんてできているはずもない。そもそもなんで抱きしめられているのだろう、と思考が堂々巡りを始め、これはいけないと軽く爆豪の背を叩いた。
すると、強かった力が緩まる。おや、と思って名前を読んだ。

「爆豪くん、あの」

背に回っていたはずの大きな手が肩を掴んだ。密着していた体が離れて少し涼しい。砂色の髪で目が隠れて表情はいまいちわからないけれど、なんだか、近すぎる気が、する。

「黙れ」

ようやく喋ったと思ったら命令で、反論するまでもなく口を塞がれる。なんだこれ、恋愛ドラマや少女漫画でよく見るあれみたい。目を閉じる間もなく、近すぎた顔面が離れていく。肩の手も外れて、ぽかんと立ち竦むお茶子をそのままに、爆豪は靴を脱いで部屋に上がった。

「へ、ちょ、爆豪くんいまなにしたん」
「なんもしてねえよ死ねカス」
「死なんよ、ねえちょっといま」
「うるせえ死ね」
「死なんて! ねえ! いまキスした?!」

ドカドカ足音を立てて爆豪は廊下を進む。苦情が来るからと何度言ってもやめてくれないので、最近はもう諦めている。
その足音がぴたりと止まった。肩越しに赤い瞳がこちらを見て、それから「チッ」と舌打ちが聞こえた。自分からあんなことをしておいて、どういう了見だ。

「してねえ」
「う、嘘」
「なら、したっつったらどうすんだ。あぁ? それでなんか変わんのか」
「逆ギレて……そりゃまあ、なんも変わらんかもやけど、でも……ええと、」

一応こちらの言い分を聞く気だけはあるらしい、お茶子が喋るのを待っている。……待っている。爆豪が、あの気の短い、数ミリの導火線に常に着火しているような爆豪が、お茶子の言葉を、待っている。

それでようやっと腑に落ちた。突然の夜の訪問、ドア前での様子のおかしさ、待ちきれなかったかのような抱擁、突発的なキス、と、舌打ち。
わかった。すべてわかってしまった。どうしてこんな簡単に、彼の考えていることがわかるのだろう。そこだけがわからない。

じわじわと顔が熱くなっていく。顔どころか、体全体から煙が出そうで、視線が床を這った。声が震えるのは恐怖からではなく、湧いてくる恥ずかしさとそれから、ーー歓喜。

「か、かわ、変わる、かも、しれない……」

爆豪くん、私のことが好きなんでしょう。そして今日は、それを告白をしに来たんでしょう。
前者はひょっとすると、前から気づいていたのかもしれない。開けろとドアを殴られたあの日から。だとしてそんなことを言えるはずもなくて、どもりながら言葉を捻り出す。
それが精一杯で、俯いていたお茶子は気づかなかった。爆豪が静かに、先ほどドカドカ歩いた場所を引き返しているのを。

「だから、その、わた、うわ?!」

再び彼の腕の中に納まる。さっきよりも力が強くて、潰されてしまいそうだった。ぎりぎり音がしそうなくらいに強く、あかんこれ死ぬ、「ぐるじい」声を絞り出すと少しだけ、本当に少しだけ、死なない程度に力が緩んだ。息を吸う。爆豪の匂いがした。
生まれて二度目の、男の子からのハグ。おまけに今度は苦しいくらいに力強く、相手がどういう気持ちでいるのかもわかっていると来ている。熱が出ているときのように頭がぼんやりとしてきた。個性を使っているわけでもないのに、ふわふわと浮いているような心地だ。

「麗日」
「……爆豪くん、今日殆ど私の名前しか呼んどらん」
「うるせえ。黙ってろアホづら」
「それ好きな娘に言うことなん」
「………………うるせえ」

否定はなかった。てっきりするかと思っていた。それならこの腕はなんだと聞くつもりだったのに拍子抜けだ。

「ねえ、私の気持ちとか聞かんでいいの」
「いらね。知ってる」
「勘違いかも」
「テメーは誰でも部屋に泊めんのか。だとしたらぶっ殺す、今ここで殺す」
「わあああ泊めない泊めんよ爆豪くんだけです!!」

また腕に力がこもった気がして、慌てて背中をタップしつつ弁明する。これ以上絞められるのは勘弁願いたい。
けれど予想した苦しさはいつまでも襲ってこなくて、むしろ力が緩んだようだった。爆豪の顔はよく見えないが、それきり黙ってしまったあたりでなんとなく察した。

「爆豪くんて、結構チョロい? こんなんで喜ばれてもなあ」
「誰が喜んでんだゴラ」
「わかるよ。わかりやすいもん」

わかりにくいけど、すごくわかりやすい。そういうところがたまらなく愛おしい。
突然、体がふわりと浮いた。知らぬ間に個性を使ってしまったかと慌てたが、爆豪がひょいと持ち上げていただけだった。
眉間にシワの寄った、険しいけれど整った顔が目の前にある。とんがった目つきはしかし攻撃的ではなく、お茶子を映して揺れている。
たまらなくなって、両手でその顔を挟み込んだ。ぐい、と頬を潰すと余計に眉間のシワが深くなる。それでも振り払おうとしないのは、お茶子の行動を許しているのとすこぶる機嫌がいいのと両方だ。ふへへ。笑いが漏れた。いつのまにかこんなにも愛おしくなっていた。

「ね、私、爆豪くん好きだ」

数秒置いてから「知っとるわ」とだけ言って、赤い瞳がそっぽを向いた。
素直じゃない、だけどかわいいひとだ。
たった今から、私の彼氏になる人だ。