ライオンの休息

とんでもないものを見てしまった。できることなら見たくは、……いや、見てやりたくはなかったのだが。
時刻は日付を跨ぐ少し前。喉の乾きを潤そうと、切島は部屋を出て一階の共有スペースへ向かった。備え付けの冷蔵庫から茶を取り出してコップに注ぎ、そこでふと、テレビのある談話スペースへと目をやったのだ。
テレビはついているが、音は小さい。ソファの背もたれから覗く頭は見慣れたクラスメイトのものだ。時折小さく揺れる、栗色の丸いシルエット。麗日だ。

こんな時間になにやってんだ? もしかして寝てんのかな、そんなら起こしてやんねえと。

そう思って、人の良い切島はコップを片手に談話スペースへ近寄った。一歩、二歩と足を進め、五まで数えたところで歩みはぴたりと止まる。
足が見えたのだ。ソファの左端、肘置きの上に、二本の足が。それは大きさや形からして明らかに男のもので、そもそも麗日が座っているのは中心よりも右側だから、彼女のものではありえない。つまり麗日ひとりだと思っていたソファには、もうひとり人間がいたことになる。更にいうならその人物はソファに寝転んでいて、切島の想像した寝方をしているのであれば、ちょうど頭が麗日の膝に乗っているのではないだろうか。

まずい、これは、見てはいけない気がする。

本能がそう告げるが、しかし好奇心はそれに勝ってしまった。だってあの足は、見覚えのある靴下を履いているのだ。その上制服のままで、切島が知る限り、今日未だに制服を着たままの人間というのは、学校の後公的用事があった人物に他ならない。そしてそんな人物を、切島は二人しか知らなかった。

足音を潜め、ゆっくりと近寄る。コップの中のお茶が少しだけ波立った。六歩、七歩、今度は足を止めない。そうしてソファの真横に並んだとき、切島はついに見てしまったのだ。
腰で履いたズボン、着崩したシャツ、砂色の髪。眉間のシワは見る影もなく、穏やかな表情で寝息を立てる爆豪の姿を。
そしてその頭を、優しく撫でてやっている麗日の微笑みを。

「……あれ、切島くんや」
「お、あ、おおう……麗日、起きてたんだな。後ろから見たら寝てんのかと思ってさ」
「起こそうとしてくれたん? ありがとうね」

へらりといつもの通り笑って、平然と会話をする。動揺しているのは切島だけだ。話しながらも麗日は爆豪を撫でる手を止めないし、爆豪は撫でられながら熟睡している。
固まってしまった切島に、麗日は首をひねった。しどろもどろな視線を辿って自分の膝に頭を預ける男を見、原因に気がついたようだ。照れたように頬を掻く。

「テレビ見てたんやけどね。十時くらいかな、爆豪くんと轟くんが一緒に帰ってきて」

二人は仮免許取得のための特別講習に行っている。揃って帰ってくるのは特に珍しいことではない。問題はそのあとだ。
麗日曰く。おかえり、と声をかけるも返事はなかったらしい。しかし二人はふらふらとソファに近づき、徐に寝転んだそうだ。

「寝転んだっていうか、倒れ込んだっていうか……。さっきまで、轟くんもそこでうつぶせで寝てたんよ。デクくんが回収してったから、今頃部屋に運ばれてるはず」
「それは……ちょっと見たかったな。それで?」
「ん? なにが?」
「なんで、その……膝枕してんだ?」

話している間、砂色の髪に彼女の指が何度も通った。手負いの獅子をかわいがっているようだ、と思う。

「それがねー疲労困憊って感じで、私のこと見えてなかったみたいなんよ」
「……てことは、倒れ込んだときからずっと」
「うん。さっさと退かしても良かったんだけど、なんか……野生動物に懐かれたみたいで面白くて」

吹き出すのを堪え、麗日は口元を手で覆った。その気持ちはなんとなくわかるので、野生動物……爆豪の眠りを妨げない程度に、声を出して笑う。
それにさ、と麗日が続ける。指先が膝上の額に触れた。

「あの日からよくしんどそうな顔してるのに、こんな顔で寝られたら起こすに起こせんでしょ」
「……麗日……」

緑谷と爆豪の”大喧嘩”は、未だ記憶に新しい。ボロボロになった二人を見て、もしやまた敵が現れたのかとざわついたのをよく覚えている。詳しい事は知らないが、あの一件のあと、二人の間にあったわだかまりのようなものが少し減ったように切島には見えた。
しかしそれ以上に、爆豪が辛そうな顔をすることが増えたことも事実だ。すぐに消化できるようなものではないからそっとしておいてやれと相澤先生に言われたが、それでも心配は心配で、麗日もそれを感じていたらしい。

「……爆豪くん、ちょっと雰囲気変わったよね。棘が減ったみたい。前までやったら、どんだけ疲れてても部屋戻ってたのに」
「周り全員敵! みたいな感じじゃなくなったよな、わかりづれえけど。麗日も気づいてたんか」
「なんとなくだったんだけどね、今日のコレで確信したわ」

砂色をかきわけ、爆豪の額があらわになる。「爆豪くんのおデコってなんとなくレア感あるな」と彼女が呟いたところで、規則正しく呼吸するばかりだった爆豪の身体がもぞりと動いた。
反射だったのだろう、麗日は咄嗟に両手を上げた。そして助けを求めるように切島を見、そんな目で見られてもどうしようもねえよ、と言おうとしたところで赤い瞳が開くのが見えた。

「…………」
「…………お、おはようございます……」
「……? ……うら……ぁあ?!」
「ヒイイ!」

突然がばりと起き上がり、切島に背を向け臨戦態勢を取る。寝起き一番視界に入った麗日のことしか見えていないらしく、切島の存在には気づいてもいない。

「テメ、なんで……ここどこだ!!」
「きょ、共有スペース! 爆豪くん帰ってくるなり倒れ込んで寝てしまったんよ!」
「なんでテメエがいんだよ!!」
「爆豪くんが枕にしたんやん!!」
「するわけねえだろ!!」
「いや、してたぜ爆豪」
「してね、アァ?!?!!」

思わずツッコんだ言葉に反応し、爆豪が勢い良く振り返る。視界に切島を認め、くわと余計に目尻を吊り上げた。

「テメエ!!なにしてやがる!!」
「茶ァ飲みに来たんだよ。衝撃映像見ちまってすっかり忘れてたけど……飲むか?」
「飲むか!!!」

息荒く大混乱していた爆豪は、一通り怒鳴り終えたところで落ち着いたらしい。少しの間のあと再び麗日を見据えてから悪態をつき、がしがしと頭を掻いて立ち上がる。

「……部屋戻る。テメエらもさっさ戻れ死ね」
「オウ。つーか一緒行こうぜ」
「ついてくんなや!!」
「麗日もよ、そろそろ部屋戻んねえとだぞ」
「ああうん、そうなんやけどね」

浮かべた笑みは苦いもので、どうかしたのかと首をひねる。麗日はちらりと爆豪を見て、気まずそうに自分の足を指した。

「痺れててね、立てんのです」
「! ……」
「あーそりゃなあ、二時間近く膝枕してりゃなあ。大丈夫か?」
「ちょっとしたら治るだろうし、大丈夫大丈夫。二人は戻っててええよ」

でもよ、と声をかけようとしたところで隣から大きな舌打ちが聞こえた。エレベータに向かっていたはずの爆豪は向きを変え、なにをするのかと思えば、自販機にまっすぐ向かっていく。
意図がわからず麗日と顔を見合わせるが、彼女も首を傾げてわけがわからないという表情だ。喉乾いてたんかなあと麗日は呑気に言ったが、そんな雰囲気でもない。

「爆豪どした?」
「うるせえ。オイ、麗日」
「なに……ん? なに?」

戻ってきた爆豪の手には小さな紙パックが握られている。ピンクの文字で『イチゴ牛乳』と書かれたそれを麗日の頭上にぽいと乗せ、「やる」と一言投げて今度こそエレベータに乗り込んだ。
目を白黒させ、頭に乗った紙パックを押さえた麗日は切島を見る。

「……お、お礼かなこれ」
「あと詫びも入ってんじゃねーかな」

言いながら思い出したのは、誘拐事件後、自分に金を渡した爆豪の姿だ。笑いが漏れる。
爆豪は少しだけ変わった。大事な部分はなにも変わらず、いい方向に少しだけ変わったのだ。証明するような行動に嬉しくなり、見れば麗日も同じなようで、紙パックを手に持って微笑んでいる。それがまた嬉しい。
切島は手に持ったままのコップをテーブルに置いた。麗日の隣、先程まで爆豪が眠っていた場所に腰掛ける。

「? 切島くん?」
「足、まだ痺れてんだろ? 治るまで、それ飲みながら話でもしてようぜ!」
「え、でも……」

朗らかに笑う切島に、麗日は戸惑った様子だ。寝なくていいの、と聞かれる前に口を開く。

「いいこと知れたからさ、礼! ひとりでほっとくのも気になるし、付き合わせてくれよ」
「……うん。なら、お言葉に甘えようかな!」

そうして二人は話し始めた。風呂に入るため支度をして戻ってきた爆豪に、「はよ寝ろやアホ共!」と怒鳴られる三十分前の話だ。