「ここに住め」
考えに考えて考えあぐねた結果、半ば自棄っぱちに飛び出したらしき一言に、自分の顔が一気に赤くなったのを感じた。いけない、慌てて引き締めて目線を落とす。緊張しているのは相手も同じなようだった。落とした先の視界に、恐らく爪が食い込んでいるだろう拳が映る。
嬉しい。すごく嬉しい。即座に破顔してしまうくらいには。
だけれど、しかし。
「……一週間、貰っていい?」
恐る恐る、表情を伺う。いつものように怒ってくれたらいいのに、眉間に皺を刻んだまま、爆豪は彼らしくなく頷いた。
「……わかった」
◆
「あれ絶対わかっとらん」
そう言って酒の並んだ机に伏せた麗日を、見守るのは蛙吹だった。わからず屋との会話は三日前の話なので、期限は今日を含めあと四日ということになる。
「一緒に住むってことは、私も色々……色々、覚悟を決めんといけんわけで……嬉しいからってそれだけで飛びついてしまえるほど、私も子どもではないと言いますか」
お酒は明るく楽しくが信条だが、今回ばかりは少々憂い気味だ。彼からすれば決死だったであろう誘いのことを、よほど持て余してしまっている。答えはとっくに決まっているのに、その答えまで辿り着けないのだ。
ぐちゃぐちゃで纏まらない思考に音をあげて、蛙吹に泣きついたのが数時間前。居酒屋の個室に転がり込んで、ことの顛末を話し終えたところだ。「こっちが照れてしまいそう」と言いながら、蛙吹は最後まで話を聞いくれた。
「でもお茶子ちゃん、断るつもりはないのね」
「ないよ! 絶対ないよ! 最近なかなか会えんし、私から言おうかなって思ってたくらいやもん!」
「なら、どうして保留にしちゃったのかしら。怖くなってしまった? それとも、爆豪ちゃんに思うところでもあったの?」
「……やっぱり梅雨ちゃん、するどいなあ」
どっちも正解。へにゃりと頬を歪めて、下手な作り笑いをする。
怖かったのは、もちろんある。何かを変えるのはいつも怖いし、勇気のいることだ。
だが、爆豪だってそれは同じだろう。麗日との関係に関しては殊更慎重な人だと知っているから、それを差し置いてでも申し出てくれたのは純粋に嬉しかった。それでも。
「いざ目の前にしたら、怖気づいてしまった。まさか爆豪くんから言ってくれるなんてって、びっくりしたのもある。……でもそれ以上に、爆豪くんが、私に変に遠慮しとるのが嫌なんよ」
いままで言わなかったのがその証拠だ。付き合うだけならいつだって逃げられる。でも一緒に住んでしまえば、離れるのはそう簡単じゃなくなってしまう。
いつだって、爆豪は麗日に選択をさせるとき、必ず逃げ道を用意していた。
付き合い始めた時もそうだ。強引に見えた告白は実のところ逃げ道だらけだった。好きでも愛してるでもなくただ一言、彼は「俺と来い」と言ったのだ。恋人としてか友人としてか選べるように。麗日が、告白と気付かなかった振りを出来るように。幸い即座に告白と気がついたから、「行く」と叫んで抱きついた。そんな曖昧なところから自分たちは始まったのだ。
今回は、言葉ではなくて行動だった。彼は数ヶ月前、唐突に引越したのだ。前よりも広く、防犯がしっかりしていて、ついでに防音もしっかりしていて、――部屋がひとつ余っている。そんなマンションだ。物置だと言う割には物をそんなに置いてないあの部屋は、きっと一緒に住むとなったら麗日に与えられるのだろう。
同棲解消となっても元々一人で住んでいた場所だから、出ていく時に麗日があまり気を使わなくて済むように。そういう配慮なのだと思う。そしてそこには、爆豪自身が同棲を解消したいと考えた時のプランは全くのゼロだ。頭がいいのか馬鹿なのか、腹立たしさと愛おしさがせめぎあい、結局怒ることができなかった。
「……遠慮しとるのは私も同じなんかも。いつもはずけずけ言えるのに、なんでなんやろ」
「爆豪ちゃんが、本当にお茶子ちゃんを想って行動してるってわかってるもの。そんな人に強くは言えないんじゃないかしら」
要するに、弱みを握られている状態である。爆豪からしたら麗日自体が弱みなのだから、お互い喉元にナイフを突きつけて震えているのだ。滑稽すぎて笑えない。
ケロケロ、笑う声に顔を上げる。にっこり笑った蛙吹は、甘いケーキでも見るような表情で麗日を見ていた。
「……梅雨ちゃん、面白がっとる?」
「ケロ。いいえ、素敵だなと思ったのよ。ふたりとも、相手のことばかり考えてるから」
「それが裏目に出まくっとるんよね……」
はあ。最早ため息しか出てこない。どこをどう間違えてこうもすれ違ってしまったのだろう。
返事の期限はあと四日。決まりきった返事をするには長く、覚悟を決めるには短い日数。ぐるぐる考えたって仕方がないことだ。不安があるなら爆豪と話せばいい。なのにそれをしようと思えないのは、今会えば別れを切り出される準備をした顔をしてやってくるに決まっているからだった。
「……めんどくさいひとやなあ」
とっくの昔にわかっていたことを、ぽつりと呟く。わかり易く屈折していて、優しくて酷いひと。麗日のことをわかっているような顔をして、全くわかっていないひと。誰よりも麗日を想ってくれるひと。
段々腹が立ってきた。面倒な爆豪にも、煮え切らない自分にも。
「ッ今日は飲む! ひとまず忘れる! すみません、生一つ!」
「それはいいけど……お茶子ちゃん、帰れる程度にしておいてね」
蛙吹の忠告を聞いていたのかいないのか。一時間後、飲むだけ飲んで突っ伏し寝入った麗日に、蛙吹は苦笑してスマートフォンを手に取った。
◆
「早かったのね、爆豪ちゃん」
不満そうに現れた元級友は、蛙吹とその向かいで眠る恋人を見て眉を吊り上げた。
「何やっとんだテメエ!」
すっかり慣れたのか、くわと叫ぶ声もなんのその。麗日は気持ちよく眠り続ける。苛立ちに拍車をかけ、再び怒鳴ろうとしたところを蛙吹が止めた。
「爆豪ちゃん、お店の中よ。迷惑になるし、一般のお客さんに気づかれちゃうわ」
「……チッ。テメエもなんで止めなかった」
「つい見守ってしまったの。爆豪ちゃんと今後どうするかって、たくさん考えて疲れていたようだから」
「……」
敵も味方もないが、敢えてそうわけるなら蛙吹は麗日の味方だ。今日の目的は麗日の相談に乗ることだったと簡単に説明すると、爆豪は目を逸らして黙り込む。麗日が何を言ったのか気になるが、それを蛙吹からきいたところでどうしようもないので飲み込んだ、そんな感じだろうか。
「連れて帰ってあげて。私のおうちでもいいけれど、いまは弟が泊まりに来ているのよ」
しれっと嘘を吐き、素知らぬ顔で話を続ける。腹立たしげに蛙吹を睨んで、爆豪は麗日に近寄った。手刀が彼女の額を襲う。それでも起きないのだから大したものだ。
「オイコラ起きろや」
「んん……」
「酒の加減くらい覚えろ飲んだくれ。テメエで立て、帰……」
不自然に言葉が途切れる。なにかしら。聞いていた蛙吹は、続く爆豪の言葉に傾げた首をかくりと落とした。
「……帰……ッ帰れや!!」
蛙吹は、麗日ほど爆豪に触れてきたわけではない。それでもわかってしまうほどにわかり易かったというだけだ。
要するに、爆豪は気にしすぎているのだった。帰るぞの一言すら言えないくらいには、一週間の保留が響いている。もしくは麗日に気を使いすぎているのかもしれない。帰るぞと言って自分の家に連れていけば、麗日が断りづらくなることを恐れているとも取れる。
正確なところは本人しかわかり得ないが、蛙吹でもわかる確かなことは、爆豪が麗日を相当好いているという点のみだ。
ああ見えて腹立たしいほどに優しいのだと普段から話には聞いていたし、今日の相談もそれが原因だった。しかし実際目の当たりにするとなかなかに衝撃が強い。くらくらしそうなのを堪え、蛙吹はそっと挙手をする。
「……爆豪ちゃん、私、思ったことをすぐに言ってしまうのだけど」
「今更だろうが。ンだよ」
「大好きなのね。お茶子ちゃんのこと」
「あぁ?! 何言っとんだテメエ!!」
「でもね爆豪ちゃん。優しすぎるのは、時々とても寂しいのよ」
はあ?
わけがわからないという顔をして、爆豪は蛙吹を睨む。が、それに怯む蛙吹ではないし、爆豪も別に怯ませようとしているわけではなかった。
「爆豪ちゃん、明日はお休みかしら。よかったら少しお話しましょ。お茶子ちゃんが起きるまでの間でも」
わけがわからない。そんな顔をしていた爆豪だが、一向に起きない恋人を一瞥してから蛙吹の誘いに乗ってきた。麗日が座っていた場所を陣取って、メニューを差し出すと素直に受け取る。適当に頼んだアルコールが来ると、黙ってそれを飲み下した。
◆
近況報告のような会話の後、適度に酒が回ってきたようで、爆豪が喋るようになってきた。その頃合を見て本題を切り出す。駄目元だが聞いてみたくなったのだ。
「爆豪ちゃん、どうしてお茶子ちゃんと一緒に住もうと思ったの?」
動きが止まり、グラスが置かれる。迷うような素振り。麗日が目覚めていないことを確認するためか、乱暴に彼女の頭を撫でてから、ぽつりと答えた。
「……コイツが何も言わねえ。目の下真っ黒にして現れやがるし、泣いて死ぬかと思ったっつっといて呼びもしねえ。見りゃすぐ気づけんのに、それもできねえのが腹立った」
疲れているなら休ませたいし、弱っているなら看たいのだと、爆豪は言う。すらすら答えたことは意外だったが、内容にはなるほどと頷く他なかった。
麗日は、爆豪に対して自分の不調を隠そうとする節がある。元ライバル、否、恋人となっても未だにライバル意識があるようで、弱っているところを見せたがらない。それは、爆豪からすれば歯がゆいことこの上ないだろう。
「それ、お茶子ちゃんには伝えたの?」
「誰が言うかよ」
そしてこちらもこちらで、散々べた惚れっぷりを見せつけてきた癖に、やはりライバルだという認識は残っているようだ。心配していると伝えたがらない。恐らく麗日も、彼の気持ちに気づいてはいるのだろうが頼らない。
ちぐはぐで、似たもの同士だ。だからこんなところで行き詰まる。
「……一度、ちゃんと話してみたらいいと思うわ。お茶子ちゃんのことばかりじゃなくて、爆豪ちゃんがどうしたいのか、ちゃんと伝えてあげて」
爆豪自身がどうなりたいのか。二人の関係をどうしたいのか。麗日が不安なのはきっとその点だろう。いつでも離れられるような備えは、自分が離れても平気だと言われているようにもとれてしまう。
優しすぎることは、時々酷く寂しい。
わかっているのかいないのか。頷きもせず黙り、爆豪は空を睨む。
「……お茶子ちゃん、起きないわね。そろそろ帰りましょうか」
席を立つ。会計に財布を出そうとすると、背後から伸びてくる手。全額払った爆豪は釣り銭を受け取って、麗日を背負い歩き出した。
「爆豪ちゃん、半分」
「いらねえ」
「困るわ」
迎えに呼び出した挙句、わけもなく奢られては立つ瀬がない。そもそもこんなことをする男でもないだろう。ありがたさより恐怖が勝つ。
困惑しつつ、こうなればポケットにでも無理やり詰め込もうかと考えた時だった。爆豪がぽつりと何か言い、聞き取れなかったのでもう一度促す。
「迷惑料と勉強代」
貸し借りなしだ、と続いて大きな舌打ち。爆豪は前を見据え歩いていく。呆気に取られた蛙吹はその背を見送り、数秒してから気が抜けたように笑った。