電話がなかった、それだけだ。たったそれだけのことで乱される自分は、とっくの昔にどうかしてしまったのだろう。
◆
昨日は電話がなかった。今日もまだ、なんの連絡も来ていない。
週終わりの金曜日、麗日は必ず電話をかけてくる。金曜が無理なら土曜、それも無理なら少なくとも、メッセージの一つは寄越すはずだ。どっちが言い出したわけでも、話して決めたわけでもない。いつの間にか、二人の決まりごととして当たり前になっていた。
苛立ちを隠しもせず、爆豪はスマートフォンを睨みつける。舌打ちは虚しく空に消えて、それがまた彼の胸のうちをざわめかせた。
いつもならこの時間は、恋人と話しながら家のことをしているはずだったのだ。他愛のない話を聞いて、馬鹿らしいと思いながらもそれを楽しむような、ちぐはぐなひとときを過ごしているはずだったのだ。だというのにスマートフォンは依然として静かなまま、机上で微動だにせずそこにある。
あの野郎、ふざけてんのか。寝てただけならブッ殺す。それとも……考えたくもないが、連絡のひとつもできないような、何かがあったのか。
気になるのならこちらからかければいいだけの話なのだが、自分が待ちかねていたように思えて腹立たしくーーそれが間違っていないことに殊更苛立って、爆豪は通話ボタンを押すことができなかった。
「……なにやってやがんだ、あの女」
ついに口から言葉が落ちる。なにかあったのか、と続けかけて舌が止まる。ざわざわと背筋をなにかが駆けて、じわりと汗が滲んだ。喉が渇く。空気がやけに冷たい。
何かあったのだとしたら。彼女の身に、何かが起きたのだとしたら。
湧き上がってきた想像に、背を押されるようにして通話ボタンに指を伸ばす。耳にあてがった鉄の板からは、無機質な女の声が聞こえるのみだ。
ざわり。一際大きくなった悪寒に、爆豪は舌打ちをする。彼女の部屋の鍵を握って家を出た。
◇
気持ちが悪い。
昨日からずっとこうだ。布団の中で丸まって、麗日はぎゅうと目を閉じた。吐き気がする、気がする。頭が痛い、気がする。ぼんやりとした不調の合図とはうらはらに、ぞわりと駆け上がる寒気は断固として主張を曲げない。
病院には行ったが、ただの風邪だと言われてしまった。なら休めば治るだろうと、処方された薬を飲んで、けだるい体を布団に預けたのだ。しかし熱は一向に下がらず、寒気も去らず。ひとりきりのガランとした部屋に泣きそうになりながら、祈るような気持ちで完治を待っていた。
昨日は早退したが、今日は元から休日だ。事務所に連絡を入れる必要もないからと机の上に投げ出されたスマートフォンは、なんの通知も寄越さない。何かを忘れているような気がするが、襲い来る寒気にすぐ流された。
「……っうう……さむい……」
ぶるりと震えて、毛布を手繰り寄せる。額に貼った冷却シートはすでに温くなっていたが、動く気も起きないのでそのままだ。
レトルトのおかゆを温めただけの夕食は、やけに寂しかった。まるで世界にひとりぼっちになったような、そんな気分にすらさせられて、もはや毛布に縋るしか手がないように思えた。こんなときに頼りたい恋人は、確か今日も仕事だと聞いている。この時間なら既に帰宅しているだろうが、自分の都合で、それも寂しいなんて子供じみた理由で、彼の休息を邪魔したくはない。
「……ばくごうくん、あいたいなあ」
彼なら風邪なんてふっ飛ばしてしまいそうだ。言葉にしたら余計に寂しくなって、じわりと涙が滲んでくる。そこでやっと思い出した。
どちらが言い出したわけでも、ふたりで話して決めたわけでもない、なんとなく習慣化した一本の電話。週の終わりの金曜日、仕事終わりに麗日から電話をかけて、取り留めのないこと(主に聞いてもらう方だ)や次のデートの日取りや予定を話して、来週も頑張ろう! と笑うための電話だった。少なくとも麗日にとっては、仕事に張り合いを出すためにあってほしい一つだ。その電話をしていない。昨日も今日も、メッセージのひとつすら入れていない。
「あかん、心配かけてしまう」
手を伸ばし、スマートフォンを手に取った。急いでメッセージを送ろうと、電源ボタンを押すが反応はない。充電切れだ。そういえば、昨日帰宅したときには既に残り僅かだった。
充電器、とあたりを見渡すが、手を伸ばして届く範囲にその姿はない。どこへやったか記憶を辿るも、熱で湯だった頭では思い出せず、捜索に乗り出そうと体を起こした。そのときだ。
がちゃ、どかどかどか、どか。
ドアが開く音、それに続く粗野な足音。一瞬すわ泥棒かと警戒したが、よくよく聞けば、聞き覚えのある足音だ。まっすぐこちらへ向かってきたその音は、麗日の姿を視界に捉えてすぐに止まった。
「……ぁにやっとんだアホんだらァ!!!」
くわと目を吊り上げ、白目で怒鳴るその姿。急いできたのか肩で息をして、両手には何も持っていなかった。一声あげて寄ってきた彼に、ぶわりと込み上げたのは安堵と、それに由来した涙だった。
「爆豪くんやぁー!」
「他に何に見えんだ死ね!!」
「ほんとに死ぬかと思った、うああん」
「死ぬ前に呼べや!! このアホ!!」
声を上げて泣いて、ベッドの横で立ち止まった彼に抱きついた。振り払うことはせず、怖い顔で私を見下ろしている。汗の匂いがした。
こんなに恐ろしい顔面なのに、どうして安心するのだろう。麗日が彼を愛しているからに違いないが、口から出たのは違う言葉だった。
「か、かあちゃん……っ」
「誰が母ちゃんだテメエ! ……おい、病院行ったんか」
「行った、行ったわ、風邪やって……」
「薬は」
「飲んだ……ごはんも食べた……」
「ならいっぺん着替えろ。タオル絞ってきてやるから、その汚え面と身体拭け。そんで速やかに寝ろ」
てきぱきと指示され、ぐずぐず鼻を鳴らしながら彼から離れた。爆豪の手が額に伸び、貼りっぱなしだった冷却シートが取り去られる。
「おとなしく待っとれ」
言うやいなや、爆豪はタオルを取りに去っていく。行かないで、と言いそうになったのを慌てて飲み込んだ。仕事終わりの疲れているときに、心配して来てくれたのだ。わがままで困らせるのは嫌だった。
◆
言いたいことは山ほどあったが、麗日の様子を見るに、今言っても無駄だろうことは明白だった。治してからとことん聞かせてやることにして、蒸しタオルをつくるべく台所へ向かう。シンクに置かれたものがやけに目について、よく見ればそれは数種類のレトルトの粥のパッケージだった。
舌打ちしたい気分で、濡らしたタオルをレンジに放り込む。ふつふつと湧き上がる苛立ちは、その殆どが麗日ではなく自分自身に向けられたものだ。
麗日は普段から、レトルトに頼りきらず手料理で済ませる方だ。節約になるから、と楽しげに手を動かす彼女の料理は、華やかさには欠けるがいつも優しい味をしている。それがいま、そんな余裕すらもないとレトルトばかり。
何が腹立たしいのかといえば、そこまで切羽詰まっているのに、死ぬかと思ったと泣くほど堪えているのに、恋人に助けを求めなかった彼女に腹が立っていた。そしてそれ以上に、頼らせなかった自分が、知らせることすらされなかった自分が情けなかった。
迷惑になると、そう思ったに違いない。それが余計に爆豪を苛立たせる。前もこんなことがあった。色濃い隈の浮き出た顔を撫でて、気づけなかったことに歯ぎしりしたのだ。
「……馬鹿は手間がかかりやがる」
舌打ちをし、温まったタオルを取り出した。
馬鹿は手間がかかる。そんな馬鹿を愛したのは爆豪で、爆豪を手間のかかる馬鹿にしたのは麗日だ。苛立ちの収まらないまま、爆豪は次の段取りを考えつつ台所を出た。
◇
投げ渡されたタオルを受け取り、もそもそと寝間着を脱いだ。爆豪は着替えを取りに行ってくれている。温かいタオルを肌に滑らせるとなんとも安心して、先ほどまで泣きじゃくっていたのが嘘のように穏やかな気分だった。恋人が来てくれたのも大きいのだろう。
「おら、とっとと着ろ」
「ありがと、爆豪くん」
再び投げ渡された服を纏い終えたところで、爆豪が近くに寄ってきた。タオルと寝間着を回収し、そのまま去るかと思いきや、彼はその場に立ち止まった。
「髪あげてろ」
よく見ればその手にあるのは冷却シートだ。大人しく額を晒すと、べちんと勢いよく貼り付けられる。
「痛い!」
「うるせえアホ」
なんだか様子が変だ。いつも通りのしかめっ面に、なにかを隠しているような。どうしたの、と口に出しかけた言葉を飲み込んで、代わりに手を伸ばす。彼の指は冷たかった。
「爆豪くん、来てくれてありがとう。ほんとに助かった」
「…………テメエは」
軽く触れるだけだった指先を、爆豪がしっかりと握りしめてくる。個性が発動しないよう気をつけつつ、彼の表情を伺った。怒っているような、寂しがっているような、そんな顔だ。
「テメエは、俺が来なけりゃ、ひとりでくたばるつもりだったんか」
きゅう、と瞳が細まる。元から刻まれていた眉間の皺は更に深くなって、ああこれは、と思う。この表情には見覚えがあった。不本意な涙を流す前に、彼はよくこんな目をしていた。
「死にはせんよ、ただの風邪やもん」
「死ぬかと思ったっつったのはテメエだろ。大体、ただの風邪じゃなくても言わねえだろうが。いい加減にしとけよクソ女」
「えええ……」
心配をかけたくなっただけだ。風邪くらいで弱気になって、彼の邪魔をしたくなかっただけだ。
指を解放して、爆豪は下を向いてしまった。怒鳴らないのが逆に怖い。本当の本当に落ち込んだときは、いつもの自己主張が嘘のようにそれを腹に溜めてしまう人だ。
言わない、と彼は言うが、麗日からしたらお互い様だった。
「爆豪くん、あのさ」
「うるせえ、もういい。寝ろ」
「よくないよ。そんな顔しといて何言っとるん」
「いいから寝ろ。テメエの面のが問題だわアホ」
とん、と額を押され、あっけなくベッドに沈んだ。思っていたよりも弱っていたらしい。確かに顔は熱いし寒気が酷くて、自覚と同時に眠気が襲ってくる。爆豪はすでにこちらに背を向けていた。それが無性に寂しくて、目を閉じる直前、その背に向かって一言、言葉を投げた。
◆
「行かないで」
その言葉を受けて振り向けば、すでに眠りに落ちた恋人がいた。傍らに転がっていたミトンを嵌めてやりながら、いつも以上に赤く染まった頬を見る。
この女は本当に馬鹿だ。心配をかけたくない、迷惑を掛けたくないと、こういうときだけ何も言わない。意地を張って爆豪に頼ろうとしない。始まりが始まり、あの体育祭以降ライバルとして競ってきたのだから仕方のない気もするが、それにしたって恋人として接してしばらく経つ。甘やかしてやるのは苦手だが、知らされなければ努力してやることすらもできない。
「……そんなに、頼り甲斐がねえかよ」
ちゃり、ポケットの中の鍵が鳴る。自宅のものと彼女の部屋のものだ。
覚悟は決まった。恥をかこうとも構わない。ふたつにわかれたこの鍵を、ひとつにまとめてしまおう。たったひとりで泣かれるのは、二度とごめんだった。