残香

布が落ちる音がした。閉じていた目を開き、少しぼうっとする頭で音の先を探ると、オレンジ色のコートが足元に落ちている。どこかで見たような色だ。無意識に拾い上げ、軽く畳んだところでようやく目が覚めた。

(雛河くんのだ)

それなりに重量のあるダッフルコート。うたた寝をしていた私に、雛河くんが掛けてくれたらしい。寝落ちる前、手に持っていたはずの煙草は、見知らぬ携帯灰皿の上に置かれていた。まんまるいコインケースのような可愛らしい灰皿。一体誰のものだろう。

「あ、えと……お姉ちゃん、起きた……?」
「うん。これ、雛河くんが掛けてくれたんだよね? ありがとう」
「う、ううん……」

ちょうど通りかかった雛河くんは、そわそわと目を逸らして頷いた。
彼に姉と呼ばれるようになったのは何故だったか。さすがによろしくないのではと思ったこともあるが、呼び始めてから彼の犯罪係数が少しだけ良くなったと志恩さんに聞いて、それなら良いかと止めないことにした。周囲からは多少なりとも反対されたが、なんにしろ傍にいることには変わりないのだから、今更呼び名など関係ないだろう。

畳んだコートを渡して、再び礼を言いながら肩を軽く叩く。嬉しそうに笑う顔に、こんな弟なら悪くない、と思う。

「あ、の」
「うん? どうかした?」
「それ……」

伸ばされた指の先には、私の手のひらに納まった件の灰皿。
ああ、これ、誰のものかわからなくて。雛河くん知ってる? そう言おうとして、赤くなった頬と開いて閉じてを繰り返す唇に気がついた。
こうなると、せっつくより自分で喋るまで待ったほうが良い、と私個人としては思っている。そういうところが過剰に懐かれる要因になったのかもしれない。

「それ、その……い、いつも……お世話に、なってる、から、お姉ちゃんに、あげる……です」
「え?」
「い、いらなかったら捨てていいから……!!」

驚いた。突然のプレゼントもそうだが何より、自分にそこまで煙草のイメージがついていたことに、だ。

煙草に火をつけるようになったのは、その匂いで考え事が捗ると気がついたからだった。煙草の匂いは私を集中させ、時には酷く落ち着かせた。誰の影響かなんて考えるまでもない。この銘柄以外、私には何の効果もなかったのだから。

――いつも、あの広い麦畑と、私の弱さのせいで止められなかったあの人を思い出す。強くならなくてはいけない。二度と同じことを繰り返さないように。次に彼と出会ったとき、隣について走れるように。

「お姉ちゃん……?」
「……ありがとう、雛河くん。これ、大切に使わせてもらいます」
「う、うん……!!」

コートを胸に抱き、雛河くんが小走りで去っていく。一度強く握りしめて、灰皿を胸ポケットに滑り込ませた。

強く、強くならなくてはいけない。

去っていく背を見つめる。あの子も私が守らなくてはいけないひとりだ。私が動き、考えることで守れる人間の、ひとりだ。そのためなら私はなんだってやろう。自分の部下がいなくなることに、きっと次は耐えられない。

彼らに貰ったものはとても多くて大きい。重たくてつぶれそうになるときもある。そんな私を支えるのは、この灰皿に落とされる、一本の煙草なのだ。
狡噛さん、あなたのお陰でまた、目に見える重みが増えました。内心そう呟いて、ばからしくなる。どれだけ訴えても、私のなかに住む彼が返事をすることはない。背を押すことはあっても、責任はとってもらえない。

それでいい。だから、私は強くなれる。

「よし、もう一仕事!」

大きく伸びをして立ち上がった。誰一人守れなかった弱い自分はもういない。
足を一歩、前へ。大丈夫。何があっても、あのひとを忘れない限り、私は大丈夫だ。