あきるほど愛した

くるりと体をまわし、ロングスカートを翻して振り返った。つい先日まであった長い黒髪はもう見る影もなく、首筋が見えるほどに短い。以前とはまったく変わった雰囲気で、彼女はふんわりと、普通の女の子のように笑った。

「糸郎」

初めて見るそれに思わず視界が歪んで、まずいと思ったときにはもう遅い。ぼたぼた零れた涙は隠しようもなく、慌てて駆け寄る皐月に声もなく手を振った。

「ど、どうした? どこか痛いのか」

まったく的外れな事を言われて今度は首を横に振り、なんとか「違うんです」と声を絞り出す。

「嬉しいとか寂しいとか、そういうものが、ぜんぶ」

流れ出してしまって、止まらないのです。
手の甲や袖を使って拭うが、どうにも止まりそうにない。そんな伊織を皐月はおろおろと見ていたが、狼狽えたところでどうしようもないのだと気がついて深呼吸をひとつ。そして髪の長かったころによくしていたような、なにかを決心した顔をした。

「糸郎、泣くな」
「すみません……すみません、皐月様」

しゃくりあげながら話す伊織の手に、皐月の白魚の指が重なる。優しく動いたその手が、涙を受け止めていた袖を下に降ろさせた。

「なんです……」

屈み込んだ皐月に、伊織が固まった。額になにか柔らかい感触がしてすぐ離れる。おそるおそる顔をあげると、照れた顔をした皐月がはにかんでいる。
キスをされたのだと気がついたとき、一瞬で頭が白くなったのに反して、体が、主に首から上が急激に熱くなっていった。パニックになる伊織の手をとって皐月は言う。

「様、はもうよせ。
私はこれから、お前と歩んでいきたい」

そうしてこつりと額を合わせられ、一周まわって頭が冷えた。まずは皐月の肩に手をおいて少し間をとり、心臓が爆発しないように気を配りながら彼女の目をしっかりと見る。

「糸郎?」
「……ぼくは」

涙は引っ込んだものの、まだ熱い目もとはきっと赤くなっている。格好はつかないが、そもそもこの身長でこの体。つけたくてもつけられないのなら諦めて、せめて伝える言葉は男らしく。

「ぼくは、叔父に連れられてあなたと会ったときから、ずっとお慕いしてきました。恋人にはなれなくとも、どういう形でもいいから支えたいと、その一心でずっとついてきた。
……何度も諦めかけた、十年越えの片思いです。それを受け止めようというのだから、どうなっても知りませんよ」

数秒の間のあと、皐月は驚いた顔を赤く染めて、また笑った。

「随分と、待たせてしまったようだな」
「待ちましたとも。生殺しでした」
「それは悪いことをした」
肩に置いていた手を、皐月の頬に添える。その上から皐月の手のひらが包み込む。

「これからも、一緒に居てくれる? 糸郎」
「もちろんだ、皐月」

このやりとりがどこか滑稽に思えるほどに、普通の高校生とはかけ離れた生活をしてきたふたりだ。思わず吹き出して、けらけらと笑ってしまう。
慣れないな。そうですね、いままでがいままでですから。そうだな。目尻に滲んだ涙を拭って皐月が言い、伊織は腹を抱えて座り込む。ふたりして散々に笑い転げたあと、落ち着いた伊織が口を開いた。

「まあ、無理に変えることもないでしょう。ぼくたちらしいといえば、ぼくたちらしいですし」
「そうだな。そのうち自然と変わるかもしれん」

並んで床に座り込み、皐月は満足げに顔を緩めたまま、伊織の肩に寄りかかる。

「……糸郎」
「はい?」

わずかに身を硬くして、伊織は返事をする。

「……なんでもない。ただ、どうしようもなくしあわせなんだ」
「……それが、平和というものですよ」

平和な時間はまだ始まったばかりだ。なにも背負わない彼女は、いまからたくさんの幸福を知っていく。それを与えるのが伊織の役目で、伊織のやりたいことでもある。
そうか、と小さく呟いて瞼を伏せた横顔に、伊織はいやになるほど幸せにしてみせると、かたくかたく決意した。