最近の日課は、昼寝中の彼をぼんやり眺めることだ。夜が遅いのか朝が早いのかはたまた両方か。生活習慣を把握するような仲でもないのでわからないが、とにかく眠たいらしい彼はよく外で昼寝をしている。
校舎周りにたくさん生えた木のなかでもひときわ大きなものの下に、二年生のなかでもひときわ小さな倉間が寄りかかっているのを見つけたのは一週間ほどまえのことだ。暇を持て余してふらふらと校舎をでて、いつもなら通らない場所を歩いているときに見慣れた水色を見つけた。
それから何度か、……正しくは毎日そこに通い、わかったのは彼も毎日そこにいるということだった。太い幹は背もたれにするのにちょうど良いらしく、いつも同じ場所、同じ姿勢で眠っている。傍には完食した弁当が置いてあり、そこで昼食を済ませたことが伺えた。機から見ても仲のいい、浜野や速水とは別に食べているのが意外ではあったが、自分だって天馬たちからの誘いを断っているのだからひとのことは言えない。
毎日通ってそっと眺めて、彼が予鈴までは眠り続けると知ってからは時間ぎりぎりまで見つめることにした。幸いひとの通りが少ない場所で、だからこそ彼もここで寝ることにしたのだろう。静かで風が心地よく、木漏れ日が暖かい絶好の昼寝スポットと言えた。よく見つけたものだ。あの先輩から教わったのだろうか、と考えたところで胸がどくりと鳴った。……情けない。
正面にしゃがみこんでじっと寝顔を見つめる約10分が、剣城にはとても大事に思えた。なにしろこの時間以外にじっくりと顔が見られるときはほとんどなく、部活ではずっとボールを見ていなければならないし、そもそもあまり長いこと見つめていたら本人にも周りにも不信がられるからだった。
自分だけの秘密の、恋。果たして本当にこれが恋なのかは甚だ疑問の残るところだが(なんせ初めてである)、倉間を見ているとからだの奥の方がじんとあたたかくなり、幸福感に満ちることは確かだった。だから剣城はこの10分を、本当に大切に一週間を過ごした。
週明けの月曜日。天気は快晴、昼寝日和。これなら今日も彼は木の幹にもたれているだろう。教室で手早く昼を済ませ、次の時間割の準備をしてから外に出る。歩みはゆっくり、できるだけ時間を潰す。あまりはやく行くと彼がまだ眠っていないかもしれないからだ。
足音を忍ばせて近づいていくと、すでに小柄な体躯は幹に預けられていた。これならまた眺めていても大丈夫だろう。予鈴まで残り15分、5分前には去るようにしているから残りはちょうど10分。そっと彼の前にしゃがみこむ。幸せな時間が始まる、はずなのだが、どこか違和感があった。いつもとなにかが違う。そんな気がして首を捻り、あたりを見渡すが人はいない。気のせいかと再び倉間に向き直って寝顔に見入り、かけたそのときだ。その隣に置かれた弁当箱に目がいった。いつもは風呂敷にきっちりしまわれているそれが、表に出ている。これは、つまり、どういうことだと考える前に体が動いた。
咄嗟に後ろに下がって距離をとる。そのまま立ち上がって逃げ出そうとしたところで、蛇の目が開くのを見てしまった。
「何か用か」
低い声。それだけでなにもかも諦めざるを得ないことを知った。
「……いえ、別に」
「じゃあなんで毎日毎日くんだよ」
ばれている。
口の中が渇いてうまく動かない。心臓がばくばくうるさいのを悟られたくなくて目をそらした。
「剣城。こっち見ろ」
「…………嫌です」
「先輩命令だこっち向け」
「嫌です」
今、顔を見たら舌でも噛み切ってしまいそうだった。あれだけ眺めていたかったはずのものがこんなにも恐ろしくなるとは。
頑なに見ずにいると大きな舌打ちが聞こえ、余計に心臓が痛む。手を握りしめて耐えた。
「……剣城」
ついには返事もままならない。目を逸らし黙ったままの剣城を、倉間はどう思うだろうか。できれば嫌われたくはないが、日課のことが露呈しているのならそれも仕方のないことだと思った。
倉間が立ち上がるのが視界の端に映った、そのときだった。
がしゃん。ガラスの割れる大きな音がして、うわあ、やばい、と数人の男子生徒がざわめくのが聞こえた。何かで窓を割ってしまったようで慌てる声が耳に届く。倉間の気が逸れてそちらに向かい、おかげで立ち直った剣城は、音の直後に走り出していた。
「あ、こら! おい!」
背中にぶつかる声を無視して校舎へ向かう。追ってくる気配はない。諦めたのかなんなのか、なんにしろ部活でまた顔を合わせるのだから逃げたって仕方がないとはわかっている。わかってはいる。それでも彼の叱責に耐えられる自信はなかった。
「……どうする」
靴箱まで辿り着いたところで口から漏れた。答えは一つだ。放課後までに、覚悟を決める他ない。
○
いつだいつだとびくびくしていたが、部活の最中は至って平常で、これは足早に部室を去れば回避できるのではと淡い期待を抱いたのだ。
「逃げんなよ」
着替えの最中、背後を通った彼が低い声で言った瞬間、その期待も打ち砕かれたのだが。
一緒に帰ろう、と誘ってくる天馬たちに断りを入れて部室に残る。今日の鍵当番は倉間だったので、最終的にふたりだけになった。
「…………」
なにかを言うべきなのだろうがその言葉が見つからず、なんの用事もないメール画面でただひたすら文字を打っていた。打っては消し打っては消し、携帯の文字盤を押す小さな音だけが部室に響く。
がたん。椅子を引く音が静寂を裂いて肩が跳ねた。直後に空気を吹き出す音。
「な、なに跳ねてんだよ……っ!」
腹を抱えて笑う彼に、安心する反面腹立たしい気持ちもしたが、赤面して黙るに努める。みしりと音がするほどに携帯を握りしめた。逃げ出してしまいたいが、いま逃げれば後が恐ろしい。
「……あのさあ」
ぼすん。ようやく笑いがおさまったらしい倉間が、活動日誌を抱えて隣に腰掛けた。再び肩が跳ねる。今度は笑わず、ただ呆れたように目を細めた。
「そんなビビんなよ。別に怒ってるとかじゃねーからさ」
机に日誌を広げ、転がったシャーペンを手に取る。鍵当番は日誌を書くことになっているから、書きながら話すつもりらしい。向き合って話すよりは遥かにマシだ。芯を出す指を見る。
「いつから」
「えっ」
「おれが気づいたの、金曜だったんだけど。いつから?」
「…………先週のはじめから、です」
観念して絞り出す。紙の上を走るペン先が一瞬止まって、また動き出した。
「マジか、全然気づかんかった」
「寝てるの確認してたので……」
「ふーん……なあ、今日監督なんつってたっけ。ディフェンス」
「……もう少し前に出ていい、と」
「あーそれだ。サンキュ」
消しゴムに持ち替えて雑に消し、またシャーペンで書き進める。一世一代の告白のつもりが、ただの雑談のように流されていった。物足りないような安心したような、複雑な心境で倉間の手元を見続けた。再び消しゴムでこすってからペンを持ち、三文字ほど書いてからぽつりと呟いた。
「なんで」
「え」
背筋が粟立つ。髪に隠れた表情はよく見えない。手は動き続けている。剣城のほうを見ることもせず、倉間は事もなげに一度流した話題を拾う。
「なんで見てた?」
「なん、で……って」
「一週間もなにしてたんだよ」
うまい言い訳も、この場をごまかす手腕も剣城にはない。正直に話すしかできることはない。しかしそれはつまり好きだと告げるのと同義で、そんなことが、できるはずも、なくて。
「……言えま、せん」
「なんで?」
「言いたくありません」
「なんで。言えよ」
からん、シャーペンが転がる。何度目か消しゴムを手に取った倉間が、書いた文字を削り取る。そんな風にこの気持ちも消し去れたらどんなに楽だったか。
「言えよ、剣城」
名前を呼ばれただけで心臓が痛くなるのを、あなたは知らないからそんな簡単に。
ゆっくり身体を丸めて、膝に額をつけた。「剣城」聞こえて来るのは倉間が呼ぶ声と、シャーペンを滑らせる音だけだ。
「…………しんどい」
「は? 体調悪いんなら早く、」
「違う」
またからんと音がした。消しゴムを取る気配。心臓はずっと痛くて、今までにないくらい顔や耳が熱い。
「先輩が好きすぎて、しんどい」
ぐしゃっ。
紙の破れる音。見れば強くこすりすぎたのか、日誌の一ページが無惨な姿になっていた。倉間は消しゴムをかけた姿勢のまま動かない。髪の隙間から耳が覗いていて、表情はやはり察せられないものの、もしかしてと思ってしまった。
「……先輩、日誌えらいことになってますけど」
「……おう」
「先輩」
「なんだよ」
「なんで、怒らなかったんですか」
彼の性格からして、本来なら寝顔をまじまじと見られて怒らないはずがないのだ。いまさらそれに気がついて、こちらを向かない袖を引く。それでも動かないので自分から顔を覗いた。
「……言いたくない」
真っ赤になった顔を、手の甲で隠して倉間は言う。
「なら、俺も言いません」
そうして少し笑ってやれば、ほんの一秒の逡巡の後、彼は握ったままだった消しゴムを放り出して飛びついてきたのだった。