あなたに届きますように

一声呼ばれて振り向けば、なぜだか眉間にしわを寄せた先輩が二本の指で服の裾をつまんでいた。なんだよ、と漏れるのはいつも通りの不機嫌な声。こちらの台詞だと思いながら、つまむ指をゆるゆる外して向きなおる。

「先輩、どうかしましたか」
「…なにも」

なにもないならこんなしおらしいことをする人ではない。鈍い鈍いと言われる剣城にも、その程度のことはわかる。
もう一度「どうかしましたか」と繰り返して、先に外した指を握りしめた。
なにかあるなら言ってほしい。お互いにわかりづらい性格だから、言ってくれなくては剣城にはわからない。特に自分に向けられた感情は、自意識とそうでない部分の区別がし辛いのだ。

「…なあ」
「はい」

とたんに目の前の倉間はぐらり揺れて、剣城の胸に軽い衝撃。ぼす、と音を立てて、ジャージにすがる指は弱々しい。

「…せんぱい?」

恐る恐る、水色に手のひらを乗せた。後頭部に向かって滑らせる。
それでも倉間は顔をあげることはなくて、剣城は少しだけ不安になった。もしかして本当に、倉間をここまで弱らせるなにかがあったのではないか。

「く…倉間先輩。倉間先輩」

慌てて名前を呼ぶ。弱った時、倉間が緩く抱きとめながら名前を呼ぶのに何度も助けられた。真似事でしか慰められない自分が情けないが、他にやり方を知らない剣城にはこれが精一杯だ。

「倉間先輩」
「…呼びすぎ」
「なにか、あったんですか」
「……あのさぁ」

やっと上がった顔は少しだけ赤いように見えた。睨む目つきはいまさらたじろぐようなものではなく、照れ隠しと悟って首を傾げた。落ち込んでいたのではなかったのか。

「理由ないとだめなの」

意味を理解するまで数秒。理解してから顔が熱くなるのには一秒とかからない。
甘え下手だと自覚はあったが、甘えさせるのまで下手だとは。いや違う、自分より年上の、頼り甲斐のあるこのひとが、自分に甘えるという考え自体なかったのだ。
あまりのことに声が出ず、返事の代わりに強く抱きしめた。ふ。肩に埋まった口から笑い声が聞こえる。

「…さんきゅ」

礼を言うのはこっちだ、と思いながら回した腕にまた少し力を込めた。