寂寞、これにて幕引き

この世にたったひとりだけ。それがいったいどういうことなのか、生まれつき家族に囲まれていた僕にはわからない。わからないけれど、それはひどく寂しいことなのではないかと、そう思っていた。

 

 

「実際のところ、そうでもないですよ」

ツェッドさんはそう言って笑った。ちょきり、ハサミの先が紙を切り落とす。紙の蝶はひらりと舞い、机を逸れて僕の足元に落ちた。

任務は早々に終わり、これから急に入れるバイトもない。つまりどうにも時間があまってしまって、暇つぶしに話でも、と彼の水槽がある温室に立ち寄った。するとちょうどこれから大道芸の下拵えをするところだというので、それならばと手伝いがてら入り浸ることにしたのだ。ソファに腰掛けて紙の蝶を作りつつ、手元以外は退屈していたから、自然と会話は弾む。その中でふと疑問をぶつけて、その返答がこれだった。
寂しくないですか、自分以外同じ姿の生き物がいないのは。今思えばデリカシーのかけらもない質問だったと思うけれど、ツェッドさんは気を悪くしたようでもなく、朗らかに答えてくれた。

「そうなんですか?」
「はい。そう思えるようになったのは、つい最近なんですが」
「へー……きっかけとか、聞いても?」

もしかすると、恋人でもできたのだろうか。種族を越えて、ひとりきりだということも忘れられてしまうくらい、魅力的な恋人が。
足元の蝶を拾おうと腰を曲げて、もう少しで指先が触れる、というところで蝶がゆっくり翅を動かした。およ、と呟いた瞬間ふわりと翔んで、僕の頭上を旋回したあと、決して高いとは言い難い鼻の上に止まる。

「レオ君です」

再び空中を舞った蝶は、また旋回して、止まる場所に困っているようだった。止まり木代わりに指を差し出すと舞い降りてくる。ツェッドさんは芸が細かいなあ、なんて呑気に見惚れていた僕は、自分が訊いたというのに返答の意味がさっぱりわからない。

「僕かー。……ん? なにが?」
「きっかけは、君です。君のおかげだ」
「…………えーと、そんな大したことした覚えないんすけど」

視線を向けた先で瞳が細まる。ほほえんでいるのだ。ヒューマーと比べると動かしづらそうな見た目に反して、ツェッドさんの顔は多弁だった。悲しいときなんかは特にわかりやすいが、今はなんだか嬉しそうにしている。

「レオ君がそうしていてくれたからですよ」

ますますわけの分からないことを言って、ツェッドさんは僕の指先の蝶をつまみ上げる。僕がなにか言う前に、蝶は彼の指で真っ直ぐのばされて、今度こそ机上に置かれた。

「君は人間で、僕はどっちつかずの造られた存在です。でも君は、そんな僕を友人だと言ってくれたでしょう。他の人間や異界人にするのと同じように、友人だと。友人と遊ぶのに、生まれ育ちのことなんて考えないって。
……レオ君が言ってくれたことに、僕は随分救われたんですよ。君は初めての友人でしたから」

そう話す彼の手元でもう一匹蝶が生まれて、机に落ちる前に羽ばたいて飛んでいく。先ほど翅を伸ばされた蝶がそれを追うようにして飛び立ち、二匹はくるくるとまわって、遊んでいるようだった。わずかに起こった風が僕の前髪を撫でていく。舞い踊る蝶たちは楽しそうで、それを見つめるツェッドさんの横顔は嬉しそうなのに少し寂しげで、ーー僕は、とても悲しくなった。
だって、僕にとって「友人がいる」ということは当たり前のことだったのだ。HLに来るまではそれこそ友人たちと馬鹿なことばかりしていたし、ライブラに入ってからは異界人、人類問わずたくさんの友人に恵まれた。
しかしいま、目の前で蝶を遊ばせる彼は、僕を初めての友人だと。ただ友達だと言っただけの僕に、救われさえしたのだと。そしてそれが当然のように笑ったのだ。
本人は寂しくなくなったと言うが、本当にそうなのだろうか。彼には家族がいない。父も母も妹もいないのだ。どうしようもなく辛くなったとき、彼はいったいどうしてきたのだろう。紙の蝶ですら、同じ姿のきょうだいがいるのに。

「ツェッドさん」
「はい」

蝶たちは静かに宙を飛びつづけている。こちらを向いたツェッドさんは、神妙な顔をした僕に驚いた様子だ。
彼の日々と自分の日々があまりにかけ離れていることを、改めて痛感した。それから彼の当たり前が、少しでも自分と同じになればと思ったのだ。寂しいことが当たり前だなんて悲しすぎる。

「俺、あなたの家族になりたいです」

だから決してやましい気持ちなんてなくて、むしろこの言葉が指すものもわかってなかったほどで、固まってしまったツェッドさんとひらり落下してきた二匹の蝶にやっと、あ、やっべえ、なんかやらかしたかも、なんて思ったのだ。そして温室の入り口付近からのびしゃびしゃという音に振り返れば、半開きのドアから半分ほど体を出したスティーブンさんが、半分ほどコーヒーをこぼして、口を半開きにさせている。あの伊達男がこの表情、これはいよいよやらかしたぞ。しかしなにをやらかしたかはいまいちわからない。僕さっきなんて言ったっけ。

「……ああ、いや、あの、すまない。その、たまには若い奴らの会話に混ざりたいなーとか思ってしまって、うん、悪い、邪魔したな」
「え、ちょっ、スティーブンさん」

バタン! 床を濡らした黒い液体をそのままに、スティーブンさんは扉を勢い良く閉めた。嫌になるくらい聞き覚えのある粗野な声と足音の後、「ああザップ、 しばらく近寄るんじゃない。氷漬けにするぞ! この扉は何人足りとも通さん!」なんてえらく決意を込めた叫びが響いて、なんだかどえらい勘違いをされているような気が……いや、されている。確実に。

「なんか大事になってる……」

氷がビキバキ固まる音と、先輩の悲鳴と、扉から漏れ出す冷気。今まで散々な目に合わされてきたが、こればかりは謝らずにはいられなかった。すんませんザップさん。ざまあみろ。

「……あの、レオ君」
「あ、はい」

ツェッドさんに呼ばれ、そうだこっちも固まっていたんだっけと扉から視線を戻す。ぎこちない動きで僕と顔を合わせ、その、ええと、と言葉に困っている様子だ。それを見ていたらなぜだか外の悲鳴なんてさっぱり気にならなくなった。迷いながらも音にされた言葉を、聞き漏らさないよう集中する。

「……僕と家族って、それはどういう」
「? そのままの意味ですけど」
「……あの、レオ君。僕と君が家族になるって、どういうことかわかっていますか?」
「家族だし、一緒に過ごすんですよね。一緒にごはん作ったりとか? ミシェーラともよくやったんですよ」
「それは……とても楽しそうで魅力的なんですが、そうではなくて」

ならどういうことだろう。あの、その、と言葉を濁し、彼にしては珍しいなあ、なんてのんびり眺めていたら突然、ハッとしたような表情になる。

「……ミシェーラさんとトビーさんは、家族になったんですよね?」
「え? はい、そうですけ、ど」
「さっきレオ君は僕になんと?」
「か、……家族に……なりたいと」
「……どういうことかわかりましたか?」

苦笑混じりに言われ、全身の血液が顔に集まったような感覚に襲われた。これは何流の血法だ。いや血法じゃない全然コントロールできてないし、なんて馬鹿なことを考えるくらいには、顔やら脳みそやらがとんでもなく熱くてたまらなかった。
家族。そうかそうかそういう、そういうことだ。単純に考えたらすぐにわかることだ。というかプロポーズの定番じゃないか、「君の家族になりたい」なんて!

「レオ君? レオ君!」
「へアッ、は、はい! はい!」

義眼を使っているわけでもないのに煙が出そうになったところで我に返る。返事をした僕に安心したらしく、ツェッドさんは手のひらを僕の肩に乗せた。

「そういうつもりで言ったことではないのはわかってます。でも、スターフェイズさんも同じ勘違いをしてしまったようですから……その、他の人には言わないほうが」
「だっ大丈夫ですツェッドさんにしか言わないんで!!」
「えっ」
「あっ?!」
いま何言った!? いま何言った!?
完全に混乱した頭は、普段見せないような、何なら自分でも気づいていないような部分までぼろぼろこぼしていく。彼の冷たい手のひらの触れる肩がやけに熱く感じて、目の前にある顔がやけに近く感じて、いつものように考えられない。ただとにかく、なにかうまい言い訳をしなくてはと思ったのだ。

「だ、そ、だからですね、つまり、ええと、家族になりたいって、そこまで思うのってツェッドさんしかいないんで! 心配ご無用! ……みた、い、な……」

見開かれた瞳が、穴が開くんじゃないかというほどにこちらを見つめている。その目を見ていたらだんだんと声が出しづらくなって、最後はほとんど音にすらなっていなかった。
「……レオ君、あの」
「…………ッス……」
「その、……勘違いしてしまいそうなんですが」
「え、ええと……」
しどろもどろとしか言いようがないくらいに狼狽して、話が妙な方向に進むのを止められない。……いや、止めようと思うのなら無理やりにでも話を切り替えればいいのだ。そうしたら優しいツェッドさんは察してくれるだろう。なのにそれができない、ーーしたくない。
その理由に、気がついてしまった。

「……ツェッドさん」

彼にひとりでいて欲しくなかった。あんなに寂しそうな顔をして欲しくなかった。家族みたいな大事な人と笑っていて欲しくて、その相手が自分だといいと思った。隣で笑っているのが別の人では嫌だと、そう思った。

「あの、勘違いしてもらって大丈夫みたいです」

僕を、あなたの家族にしてください。

さらっと言ったつもりが噛みまくり、声は上擦って酷いものだった。さきほど言ったものと違って、きちんと意味を乗せた言葉はこんなにも重い。
ツェッドさんは僕と目を合わせたまま動かず、口を開いては閉じ、閉じては開いていた。僕はといえば、昔ミシェーラと池で見た魚がこんなだったなあ、ツェッドさんてやっぱり魚なんだなあと思いながら、ずっとその様子を眺めていた。案外余裕があるものだ。

「ツェッドさん、ツェッドさん」
「……………は、ああ、はい。なんでしょう」
「別に返事がほしいとかは思ってないんで、ていうか僕もいま自覚したからアレなんですけど。……キモチワルかったら忘れてくださいね」

目の前でぱたぱた手を振ってそう告げる。我にかえった彼は僕の言葉を噛み砕き、砕ききってからようやく理解したらしく、ガッシリ肩を掴んで顔を寄せてきた。

「そんなこと思うはずがありません!」
「うおっ?」
「そんなこと、僕は思いません。僕は、僕だって、……君とずっと居られるならどれだけいいか」

そこまで言って、ツェッドさんは顔を下げた。肩を掴む手は震えていた。

「僕はどっちつかずで、君は人間だ。だから叶うはずがないと、……僕は、君と友達でいられるだけで十分だったんです。こうして暇なとき会いに来てくれて、話をして、次に遊ぶ約束をして、それだけで本当に十分だったんだ」

泣いているのだろうか、声が潤んでいる。いいんですか、とツェッドさんは続けた。

「……いずれ君は目を取り戻して、妹さんの元へ戻るのでしょう。今のままなら、僕は笑って送り出せます。
でも君が言うような関係になるのなら、そのとき僕は、行かないでくれと縋り付くかもしれません。連れて行けと喚くかもしれません。……いいんですか」

怯えているのだと、上がった顔を見たときようやく気がついた。このひとは、僕が、家族がいなくなることをとても恐れている。
安心させてあげたい。そう思ったら、自然と言葉が口をついていた。

「……僕ね、思うんですけども。ツェッドさんは、うちの妹夫婦を見ましたよね」
「はい。お二人から話も聞きました」
「じゃあ聞きます。ミシェーラが、行かないでくれって泣いてるトビーを置いてHLへ……俺のところへ来ると思いますか?」

ぽかんと口を開けて、ツェッドさんは首を振る。

「思いません。たとえ彼女が……その、足が動き目が見えていたとしても、よほどの事情がない限りそれはしないかと」
「でしょう。で、僕とミシェーラはよく似た兄妹らしいです。人との関わり方は特に」

震える背に腕をまわした。昔泣いているミシェーラによくしてやったみたいに、背中を軽く叩く。表情はよく見えないが体の強張りはマシになった気がした。

「ツェッドさん、俺の家族になってください。ミシェーラやトビーとも家族になってください。一緒に妹夫婦のところに遊びに行きましょうよ。ツェッドさんが来てくれたらきっと喜びます」

僕には安易に想像できる。ふたりはとんでもなく驚いて、だけど次の瞬間にはツェッドさんを大歓迎するだろう。お兄ちゃんが増えたわ、とミシェーラは笑う。それから僕を捕まえて、僕らの馴れ初めを根掘り葉掘り聞くのだ。

「……レオ君」
「なんですか?」
「君は、どうしてそんな簡単に、僕を喜ばせるんです」

言って、ツェッドさんは片手で顔を覆ってしまった。喜んでいるのならもっと笑ってほしい。彼が美味しいものを食べたときの、嬉しそうな顔が僕は大好きだった。

「……いいんですか、本当に。僕が素直に、嬉しいと受けてしまっても」
「いいもなにも、言い出したのは俺ですよ」
「後悔しませんか。僕はきっと君を手放せない」
「俺だって手放す気ありませんし」
「……僕は、君とは違うんですよ」
「でも、半分は同じスよね。今は俺も真人間とは言い難いし、似たもの同士ってことでどうでしょう」
「…………」

それきり彼は黙ってしまった。手で隠された表情はわからない。困らせてしまっただろうか。それはそうだ、いきなり家族になろうだなんて唐突すぎた。自覚もある。というか自分すら若干ついていけてないところがある。
それでも、ツェッドさんと家族になりたい、彼の家族になりたいという気持ちは本当だ。

「……君はいつだって、普通に優しくて普通に明るくて普通にお節介で、正義感も強いし仲間思いで誠実だ」

いつか聞いた台詞。緊迫した状況の中、友として背中を押してくれた言葉。

「……そんな勇敢で高潔な君に、僕は救われた。そして気がついたときには、君をーー愛してしまっていました。だから改めて、僕からも」

ツェッドさんは顔を隠すのをやめ、僕の手を取った。あの時とよく似た、まっすぐな視線に射抜かれる。

「僕の家族になってください。僕を君の家族にしてください。必ず守るとも、必ず幸せにするとも言えないけれど、君と共にこれからを歩みたい。そのためなら僕はなんだってします。

ーーずっと一緒にいてください、レオ君」

手が震えていた。声が濡れて揺れていた。何年もの孤独に縋られている気がした。嘘も飾りもない、等身大の言葉だった。
自然と、顔が笑っていた。

「俺の方こそ、一緒にいさせてください。よろしくお願いします、ツェッドさん」

照れくさくて頭から煙でも出そうだ。まるで抱え込むみたいに抱きしめられて、手加減なしの抱擁は呼吸が止まって死ぬかと思った。

さて、ミシェーラにはなんて報告しよう。婚約したよ。なりゆきだったけれどプロポーズしたよ。いや違うな、ちょっと気障っぽいけれど、言うならこうだ。

ハロー、ミシェーラ。僕らに、新しい家族ができたよ。