指が私の頬に触れて、しばらくためらったあとに離れていった。彼は私の顔をじっと見つめている。冷たい指先、大きな手のひら。いつだってその手で助けてくれた彼。押し倒すことだって容易なはずなのにそうはしなかった、優しいひとだ。
「…ねえ、わかってるわ」
不動くんの肩がびくりと揺れた。悲しげな瞳に不安が混じる。
「わかってるわ、あなたの気持ち」
きっとこれは、彼からしたら死刑宣告にも近い言葉だ。その証拠に緑色から光が失せた。顔色も青ざめて、指はさらに冷えていく。しんでしまう、とそんなわけないのに思って、私は彼の手をとった。
「…悪かった」
「どうして?」
「……近づいて、悪かった」
そんなふうに言うのはきっと私が弱かったからだ。弱くて臆病で、守られているばかりのお嬢様だからだ。
不動くんはゆるり、私の手を外して、部屋を出て行こうと二歩下がった。
それを追って、三歩。目の前に彼の胸板が迫る。顔は見えない。まだ臆病は抜けきっていないから、きっと見えないほうがいい。ぴたりとくっついて彼の背に腕を回した。彼は細いけれど筋肉はついていて、サッカー選手らしく引き締まった身体をしている。そういえば、男のひとの身体にこんなにも触れたのは初めてだ、と思った。
「…離れろ」
「いいえ」
「離れて」
「いやよ」
「…許してよ」
「いやよ」
許してなんかやらない。ちゃんと責任はとってもらう。
「ねえ、不動くん」
「なに」
「言ってちょうだい」
ちゃんとあなたの口から、あなたの想いを聞かせてちょうだい。
固まった彼は息だけでいいの、と訊き、私はなにも言わず、震える彼の手を感じながら、回した腕に力を込めた。
「…夏未さん」
「はい」
「夏未さん」
「はい」
ようやく背中に腕が回された。鼻先が肩に埋められ、くすぐったさに身をよじる。
「あのさ、」
「なあに?」
「…ずっと、好きだった」
「…ええ。…あのね、不動くん」
「なに?」
「ずっと、逃げてばかりでごめんなさい」
震えていた指が私の肩をしっかりと抱いた。うん、くぐもった返事は湿っていて、泣かせてしまったと思うと同時に涙がこみ上げた。
まだだ、まだ泣いてはいけない。
そっと不動くんの背を叩いて、離れるように促した。にじんだ緑色と向かい合い、浮かべたのは心からの笑み。
「私も、不動くんが好きです」
言えた、と思ったのと同時に不動くんはその場にしゃがみこんだ。立てた膝に顔を埋めて、漏れ聞こえるのは小さなうめき声。不動くん? 呼んだ声の返事は、右手が弱々しく揺れるだけ。
しばらくそのまま不動くんは動かなくて、私も同じようにしゃがんで彼が顔を挙げるのを待っていた。顎を両手に乗せて、じっと見つめていると名前を呼ばれ、なあに、と尋ねる。先ほど弱々しく揺れた右手が、私の髪に優しく触れた。
「…ありがと」
顔はあげないまま。すん、と鼻をならす彼。
それはこちらの台詞だと、言葉にする前に涙が溢れて、吐息になって消えて行った。言いたいことも言わなくてはならないこともたくさんある。あるはずなのに音にはならず、再びおさまった腕の中で消えていく。
彼の手のひらが私の背に触れ、ぽん、と軽く叩いた。昔、同じことを何回もしてもらったことを思い出す。泣きじゃくる私の背中を、隣に立った不器用な彼はそうやって励ました。けれどやり方は同じでも、意味するものはまったく違うのだ。
これからいろんなことが変わっていくのだろう。背中を叩いた理由みたいに、なにもかもが変わってしまうのかもしれない。
それでもいい。それがいい。ふたりで一緒に、変わっていきたい。
「不動くん、私、がんばるわ。あなたといられるように、がんばるから」
「…なら、まずは料理からな」
「…また教えてくださる?」
「今まで通り、ってわけにはいかねーけど」
「あら、どうして?」
首を傾げると不動くんはふい、と顔を逸らした。
「俺の好みとか、知ってもらいませんと」
作ってくれるんでしょ、俺に。
瞳だけうかがうようにこちらを向いて、それがどうにもかわいらしく思えて笑ってしまう。何笑ってんだよ。彼が拗ねた口調で言い、私はなんでもないの、と笑いながら返す。
目尻に浮かんだ涙を指ですくって、改めて彼に向き合った。
「ねえ、不動くん」
「…なに」
「これから、よろしくお願いします」
「………こちらこそ。よろしくお願いします」
頭をぺこりと下げあって、その滑稽さにふたりして笑った。