剣城の話

首に手を当てて圧迫する。少し息が詰まると同時に指先から生きる音が聞こえて、剣城はそれが好きだった。

自分に意味を感じられなくなったときは、必ず首に手を添える。指先から伝わる、とくりとくりという音が心地よくて安心するのだ。くらやみに落ちていきそうになる意識が、かろうじてあたたかい場所に留まるような。こみ上げてくるなにかが、喉元で霧散していくような。そんな気がする。
とにかく、剣城はその動作が好きだった。ボールを蹴るのと同じくらい、生きることを感じさせてくれるから。兄に救われた体を実感するから。

 

 

雷門に入学して、もう半年以上が過ぎていた。
教師の脱線話が流れる授業中、剣城は自分が入学当日にやらかしたグラウンドを見下ろして懐かしくなる。
思えばあれだけのことをして、よくチームに溶け込めたものだ。自分を見つめる先輩たちの冷たい目は、今思い出しても肌が泡立つ。腕をさすりながら、もしも、と考えた。

もしあれから、受け入れてもらえていなかったら。いま自分が持っているものが全部、溶けてなくなる。それはとんでもなく恐ろしくて、知らず袖を握りしめている自分に気づく。

(……潰すつもりでいたのに)

潰されたのはこちらだった。ひとりでいられる強さを、いつの間にか潰されていた。
ぽこん。頭に軽い衝撃、驚いて見れば横に教師が立っている。丸めた教科書を構えて、少し怒った顔をしたサッカー部顧問が、

「早くサッカーしたいのもわかるけど、今は国語の時間よ、剣城くん」

と言い、だいぶ剣城に慣れてきたクラスメートからは笑いが起こる。
顔を熱くしながらすみません、と軽く頭を下げて、ふと気づいた。

入学以来、首に手を当てることが少なくなっている。

 

 

「剣城、呼んでるよ」

クラス内では割と話す男子が、自分の席でメールを打っていた剣城に声をかけてきた。指差す方を見れば、教室の入り口で、同じポジションの先輩が弁当をぶら下げて立っている。クラスメートに礼を言ってから駆け寄ると、「昼飯持って来い」と一言。行きがけに買ったパンを持って、教室から出た。

「神童がさあ、同じポジションの後輩と飯食って、親交を深めろとかなんとか言い出して。キャプテン命令だ! とかいうから仕方なく」

まったくなにに影響されたんだか、とため息をついた倉間の隣を歩きながら剣城は、一体どこに連れて行かれるのかとはらはらしていた。そういうことなら影山も、と言えば「狩屋が一年一人は絶対ヤダってだだこねて連れてった」とのこと。西園はキーパー同士で食べるそうだ。

「そういや、誰かと食う約束してたりは」
「いえ、いつも昼はひとりなので」
「……おまえ、サッカー部以外にも友達作っとけよ」
「……」

靴を履き替え、到着したのは三年校舎の横だった。
ここでいいだろ、腹減ったし食おうぜ。夏が終わり、涼しくなりはじめたこの時期、外にいることは苦にならない。反対する理由もないので素直に従い、木のすぐそばに腰を下ろした。

「飯食って話すっつっても、話題があるわけでもねえしなあ」

あけすけに言い放って、倉間は弁当を広げた。
まったく同意だがここまで言われてはなにか話さなくてはなるまい。けれど人付き合いが得意でない剣城に気の利いたことが言えるはずもなく、考えあぐねた結果無難なところに落ち着いた。

「……先輩たちはいつも、なに話してるんですか」
「んー……だいたい浜野のボケにツッコんでるうちに昼休み終わってる」
「速水先輩は」
「浜野の隣でオロオロしてるか、笑ってるかだな」
「へえ」

しまった、話が終わった。

パンを頬張りながら、再び必死に頭を回す。話題、話題と考えるほどなにも出てこない。天馬と話すときはどうしていたのだったか、と思い返せば、だいたい一方的に話を聞いていただけだった。たまに剣城から口を開くときは、サッカーか優一の話しかしていない。だめだこれは。
いつの間にかパンが半分ほど減っている。授業中でもこんなに働かしたことはないほどに、脳はフル回転していた。このままだと、ほとんどなにも話さずに昼食が終わってしまう。それはとてもよろしくない、なんとかしなくては!

そんな沈黙に苦しむ剣城を見た倉間は、本人には聞こえないように「……やっぱり悪いやつじゃねえよなあ」と呟いた。

 

 

放課後、多くの生徒が部活に走る中、剣城もそれにならって部室棟へ向かおうとしていた。
そこに声をかけられて振り向くと、昼に倉間が来たことを教えてくれた男子が立っていた。

「昼、大丈夫だった?」
「昼?」
「なんか凹んで戻ってきたから、キツいこと言われたのかと思って」

剣城は首を捻った。
確かに凹んではいたものの、むしろなにも話せなかったから凹んでいたのだった。結局あのあとも、少し話しては黙り、少し話しては黙りを繰り返して、ろくな会話ができなかったのだ。

しかしそれを言ったところでどうにもならないし、なにより恥ずかしいので適当にごまかす。

「いや、別に……そういうことじゃない」
「そう? ならいいや、部活頑張ってな!」
「ああ」

剣城の肩を叩いて、彼自身も部活のために外へ駆けていく。
その背を見送って数秒、剣城は「あ」と声をあげた。
心配してくれた礼を言ってない。

(まあいいか……)

気づけば集合時間の2分前。剣城は慌てて駆けだした。

(……明日言おう)

律儀なやつだなあと笑われて、部活外に初めて友人ができるのは翌朝の話だ。

 

 

「京介、どうかしたのか? 顔色が優れないけど」
「……兄さん、先輩となに話せばいいと思う?」

言えば優一はどういうことだと首を捻った。情けない気持ちになりながら、でも兄以外頼るあてもないので、話す。

「しばらく、倉間先輩と昼を食べることになって」
「へえ、いいじゃないか。京介、昼はずっとひとりなんだろう?」
「それは、いいんだけど」

いいんだけど、と話す声は小さい。
神童発案の『先輩後輩で昼をともにして親睦を深めよう計画』は、1日で終わるかと思いきやまさかの一週間継続になったのだった。つまり一週間連続で、今日のようなどこか寂しい昼食になるのである。
はあ、ため息をもらせば、幸せが逃げるぞと笑われた。

「それはいいんだけど、話題がなくて」
「話題なんていくらでもあるだろう。友達の話とか、昨日食べたものの話とか」
「……そういうのでいいのかな」
「……京介。別に芸人じゃないんだから、単純に思ったことを話せばいいんだよ?」
「……うん」
「俺と話すときみたいにさ。普通でいいんだよ、普通で」
「…………うん、わかった」

本当にわかったのだろうか、気合いを入れすぎて空回りしそうな弟の顔見て、優一は笑った。

(このぶんだと、女の子と一対一の会話なんて当分無理だろうなあ……)

優一の心配をよそに、明日こそ先輩とまともに会話をしてみせると、剣城はもしかしたら試合のとき以上に意気込んだ。

 

 

風呂からあがると携帯にメールが入っていた。天馬からだった。

「そういえばおひる、どうだった?」

こいつまだ漢字変換覚えてないのかと呆れながら、返事を打つ。

「狩屋が影山をつれていったから倉間先輩と二人だった。 いいかげん漢字変換覚えろ」

飲み物をいれているうちに返事がくる。打つこと自体は慣れたらしい、始めのころよりずいぶんはやい。

「あは、まさきらしいね。たのしかった? かんじにするのむずかしいよ」
「まあそこそこ。 明日また教えてやるからもう寝ろ」
「そこそこって。くらませんぱいにいってやろー ありがとうおれがんばるよ。おやすみー」
「やめろオラ(ノ`・ω・)ノ おやすみ」

直後に電話、やはり天馬からで何事かと応じる。

「もしもし、どうした」
「ねえ剣城あの顔どうやってやるの!? かわいい!!」
「……明日それも教えてやるから寝ろ」
「うん! おやすみ!」

こいつたぶん、寝ぼけてる。
思いながら電話を切った。

 

 

布団にもぐって数秒。すぐに睡魔はやってきて、瞼が重たくなる。心地よい眠気のなか、直前にした母との会話を思い出していた。

「学校、どう? 楽しい?」
「うん、まあ、そこそこ」
「ふふ、そう。ならよかった。京介は私に似て人付き合いが苦手だから、少し心配してたのよ」
「一方的にずっと喋るやつがいるから」
「天馬くんでしょ。そんな感じがする」
「うん」

母は嬉しそうに笑って、剣城の頬に触れた。

「……母さん?」
「……なにかあったら、すぐに言いなさいね。前みたいなことは絶対なしよ?」
「……うん」
「それから怪我はしないように。大事なエースさまなんだから」
「エースさまって」

皮肉っぽい言い方にむっとして睨むと、母はやはり笑って、剣城の額を指ではじいた。
母譲りの目つきは試合相手を黙らせるには十分だが、家族相手では牽制にもならない。

「じゃあ、今日は寝なさい。明日も早いんでしょう? 練習がんばってね。次の試合はなんとしても見に行くから!」
「別に無理して来なくても…仕事、忙しいんだろ」
「息子の晴れ舞台、ちゃんと生で見たいのよ」
「う……おやすみ」
「うん、おやすみ」

父も母も仕事が忙しくて、それでもなんとか剣城の試合を見にこようとしてくれる。今のところそれがかなったことはないが、3年間あるのだから最低でも一度は来れるだろう。
少しだけ、寂しいと思うこともある。でもそういうときにはだいたい隣に天馬がいて、そんな気持ちを吹き飛ばしてしまう。

(……そういえばあいつは)

確か両親と離れて暮らしていたはずだ。秋がいるとはいえ、寂しくないのだろうか。
ひとりで過ごした夜の心細さを思い出し、ああそうか、と思う。寝ぼけながらも携帯を見るのはそういうことだ。
今度一年全員で押し掛けてみるか。きっと狩屋は嫌がるけど、最終的にはついてくるだろう。問題はどうやって切り出すかだった。こんなことを剣城が言い出せば、霰だ槍だの大騒ぎになる。西園あたりを誘導するか? そんなまどろっこしいまねをするのは面倒だ。

ふと明日の昼のことを思い出した。
そうか、こういうことを話せばいいのか。笑われるだろう。そしてそれから、笑いながら解決策を考えてくれるはずだ。たぶん、たぶんだけど、倉間は似たようなことを経験していると思うから。

寝返りをうって目を閉じる。数秒もしないうちに眠りに落ちた。

その日剣城は、サッカー部でキャンプをする夢を見た。

みんな笑顔で肉を焼いたり魚を焼いたり、終止楽しそうにはしゃいでいる。延々魚を釣る浜野にツッコむ倉間、その横で魚に怯えつつも笑う速水。そこにはしゃぎすぎた天馬が突撃して、倉間にたしなめられる。一連の流れを見て、剣城も楽しくなって笑う。笑い声の絶えない、なんとも幸せな夢だった。

 

 

朝、目覚ましとともに目を開けて、起きあがると同時に楽しい夢のほとんどを忘れてしまった。
ジャージに着替えて朝食をとり、適当に準備を済まして家を出る。寝ぼけ眼の両親に見送られて、学校に向かった。

今朝の夢はどんなだったか。とても楽しい夢だった。確か天馬がはしゃいでいて、それを倉間先輩がたしなめていたような。
それじゃほとんどいつもどおりだ、と思ったところでおかしくなった。

つまり剣城は毎日が楽しいのだ。自覚できない程に、毎日が当然のように楽しい。ひとりでいることが減ったから、自分の意味だとか小難しいことを考える時間もなくなった。

ひとりでくつくつ笑っていれば、こうして学校に向かうことまで楽しんでいる自分に気づく。なんとなく時間が惜しくなって走り出した。かばんが揺れて、中身ががさがさ音を立てる。ジャージの裾がなびいた。
もう誰か来ているだろうか。天馬と西園あたりはいそうな気がする。それまでにこの上がった口角をなんとかしなくては、それこそ霰だ槍だの大騒ぎだ。
走るスピードをあげる。このくらいでバテるような鍛え方はしていないから、朝練までもつだろう。叫びだしたい衝動を速さに変えて、少しでも早く学校を目指した。

そして学校まであと数秒のところで、昼食を買い忘れたことに気づき、慌てて来た道を引き返すのだった。