Coffee nougat.

バレンタインだからといって、チョコレートを用意するなんてことはしなかった。確かにおれと南沢さんは付き合っているけれど、男同士でするイベントでもない気がしたのだ。それに愛する彼は去年、紙袋3つ分のチョコレートをもらっていたと聞いてしまえば、もう買う気すら起きなかった。自分がなにか持ってきたところで、何十個という女子からのチョコレートに紛れてしまうのが関の山だ。それはなんとなく悔しいではないか。

そんなわけで特に何の準備をすることもなく、バレンタイン当日に臨んだ。

結論から言うとそれは大正解で、放課後には南沢さんは昨年の記録を超えて紙袋5つ分のチョコレートを抱えていたし、なんと(自分で言うのも悲しいが)驚くことに、おれにも紙袋が必要になる程度のチョコレートが贈られてきたのだ。南沢さんに訊けば、サッカー部に在籍しているというだけでそれなりの数を貰えるらしい。さすがはサッカー名門校といったところか。

「……本日の部活動は中止とする。各自、無事にその荷物を持ち帰るように」

監督のひと声でサロンに集まった部員は一斉に解散した。
おれは南沢さんと二人でサッカー塔を出た。お互い両手はチョコ袋でふさがっていた。
といっても、おれの右手にあるのは南沢さんのものだ。一番軽いヤツ、と渡されたそれは、おれの袋よりもだいぶ重たい。

「処理どうするんですか」
「手作りは捨てて、既製品は家族で食う。素人が作ったもんとか食えない、三国は別として」

それより倉間、と南沢さんがおれの顔を覗き込んだ。ちょうどいつも別れる交差点に差し掛かったところだった。

「お前、このあと暇?」
「まあ、部活もないし……暇ですよ」
「じゃあ河川敷集合な。ボール持って来い」
「! はい、じゃあまたあとで!」
「ん、またあとで」

誘いが単純にうれしくて、すぐには気が付かなかった。久々のデートだ。自然と歩みが早まって紙袋が揺れる。少し邪魔だった。
こんなものより、南沢さんと一緒の時間のほうが、ずっとずっと甘い。

 

 

「はー、疲れた」
「部活の時より走ったんじゃないですか」
「そうかも」

本日二度目の家路を歩きながら、服についた砂をはらう。
だいぶ上手くなったでしょ、すぐに追い越してやりますから。笑いながら言えば、待っててやるよと南沢さんも笑った。気づいたら手をつないでいた。南沢さんの指は白くて細くて今にも折れそうなのに、こうして絡めているとなんだか安心する。
ふいに南沢さんが立ち止った。

「くらま」
「なんですか」
「ちょっと寄っていいか」

指さした先はコンビニだった。

「いいですよ」
「さんきゅ」

まだ一緒にいたいから、とは言わないでおいた。
つないでいた手が離れていく。そこだけやけに空気が冷たく感じた。

店に入るなり店員の間が抜けた声が響く。
南沢さんはまっすぐ進んで、いつもは寄り付かないお菓子コーナーに入った。おれが首を傾げていると、迷わずにチロルチョコをひとつ取り上げて、レジに向かう。

「え、そんだけですか?」
「ん」

会計はすぐに終わった。小さなチョコを袋に入れて、ありがとうございました、と言った店員の顔が印象的だった。
コンビニを出てすぐ、入口から少し避けたところで南沢さんが袋をひっくり返す。
そんなにチョコが食べたかったのか、家に帰れば腐るほどあるくせに。そう思ったのもつかの間、手のひらに落ちたそれを、南沢さんはずいとおれに差し出した。

「ハッピーバレンタイン」

思わず両手を差し出して、指からこぼれたチロルチョコを受け止めた。事態がつかめずに呆然と口を開けていたおれの額を小突いて、あほ面やめろと南沢さんが呆れた声を出す。
そういえば、付き合い始めてからなにかもらったのは初めてだ、と思った。気持ちはたくさんもらったけれど、形のあるものは初めてだ。

恋人からにしてはあまりにあっけなくて、さびしいちいさなチョコレート。
それなのに、こんなにも、うれしい。……くやしいなあ。

「……ちょっと待っててください」
「ん?」

単身で店内に戻り、まっすぐお菓子コーナーに行って、迷わずチロルチョコを取って、レジに向かう。袋を断ってそのまま手に包んだ。店員はやはり怪訝な顔で、それでもありがとうございました、とすでにドアに向かい始めているおれに声をかける。

店を出ると、南沢さんはさっきと同じように立っていた。小走りで近寄った。

「南沢さん、手出して」

白い手のひらに、握っていたものを落とす。ぽとりぽとり、黒い包みのチロルチョコがふたつ、南沢さんの手に乗った。

「ハッピーバレンタイン」

おれが歯を見せて笑ったら、南沢さんはすこし驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。