曖昧一回目

駆け下りた階段の先にいたのは、自分より頭一つ大きい後輩の姿。勢いのついた足はその姿を認めても止まれず、それでも無理やり止まろうとしたのが災いして、残すところ三段で落下した。

「……っ」
「ってー……」

従順な後輩は避けずに受け止めたらしい。もつれ込んで倒れた。慌ててがばりと身を起こす。
避けろバカ、大丈夫か。
口を動かそうとしたところで痛みが走る。触れると指に血が滲んだ。口の端を切ったようだった。

「せんぱ、」

不自然に切れた言葉に目をあげると、剣城が口元をおさえている。よせた眉間に不快感が現れていて、おいまさか、と痛む口元をそのままに言った。

「……切った?」
「……口の中を」

軽く、と続けたのはおそらく大嘘であることは、このバカの性格からしてはっきりしている。けれどいまそれは問題ではなくて、考えるべきはお互いに怪我をした位置のことだ。
口の端、と、口内。
十四にして青春の終了を告げられた気がした。

「……うそだろ」

ひっそり憧れたファーストキスの相手はまさかの男である。オレが突然がっくり頭を下げたのに剣城がおたつく気配を感じるが、それどころではなかった。
いや、まだ希望はある。ただ怪我の位置が一致しただけで、キスをしたとは限らない。というかしてたまるか。勘弁してください。

「いや、してないしてない、キスとか、うん」

ごく小さな声を剣城は耳ざとく聞き取ったらしい。目の前にいるのだから当然か。少し思案する動きのあと、倉間先輩、と覗き込まれた。

「……んだよ」

情けなくもガチ凹みである。いやしてないけど。してないけど。

「先輩」
「だからなにかって、」

気づけば目の前に剣城の、よく見れば長いまつげがあって、けれど琥珀色の瞳を覗き見ることはかなわない。状況把握につとめて目を見開いた。ふに。唇になにか柔らかいものが当たる。ちゅ。耳に残る音。

「んあ?!」

我に返ったときにはすでに遅し。剣城は早々に踵を返して歩き去ろうとしていて、オレが声をあげるとびくりと肩を跳ねさせた。

「おまっいまっなにっ」

混乱にうまく言葉が出てこない。伺うように剣城が振り向く。すでに足が逃げる体制なのはお見通しだった。逃がしてたまるか、深呼吸をして立ち上がる。

「おまえ、あれか、オレがパニクってたからじゃあいっそはっきりさせてやろうとか、そういう、」

日本語がぐしゃぐしゃで、それでも理解した剣城の顔に「図星です」の文字が見えた。それと同時に赤く染まった頬にも気づいてしまう。
わなわなと唇が震えた。顔が熱い。なんでオレまで赤くなってるんだ!

「ふ、ふ、ふざけんなー!!!」

結局逃げ出したのはオレで、泣きたくなるくらい熱くなった頬とか耳とかが情けなくて、振り切るように剣城と反対方向に走り出した。剣城が後ろで「えっ?!」と叫ぶのが聞こえたが構うものか。一目散、の意味を身を以って知った。

しかし。

「倉間先輩?!」
「追ってくんじゃねえよバカそういうのは女子にやれよ!!」
「先輩が逃げるから!」

逃げさせてくれよ!!頼むよ!!
昼休み終了まであと20分。逃げ切ればオレの勝ち、…逃げた時点で負けな気もするが、勝ちということにしよう。

 

 

理由も目的も忘れて、どこか晴れ晴れとした気分で寝そべった屋上。隣には剣城が横倒しになって息も切れ切れ。オレも負けず劣らず息を切らしているが、たぶん剣城より先に整うはずだ。ごほ。咳払い。

「ほんじつはせいてんなり……」
「……ああ……そう、ですね」
「……オレなんで走ってたんだっけ」
「……さあ……」

一度大きく吐き出して、また吸い込む。それだけで幾分か呼吸が整った。剣城も仰向けになって息を吐いた。オレは起き上がって隣の剣城を見下ろす。
無我夢中で走っているうちに、いろいろとどうでもよくなっていた。どうしてあんなことで走っていたんだか。

「……口ん中大丈夫か」

「あー……平気です」

目線だけ寄越して剣城は言う。やはり嘘だな、と思ったが後輩の意志、というか意地を尊重するのも大切だとなにもいわなかった。代わりに「悪かった」と顔を逸らす。「いえ…次、気をつけてください」と剣城が言って、少しだけ笑う。

その顔の横に両手をついた。ちょうど挟み込むように。
そのまま顔をおろす。鼻がぶつからないように角度をつけて、本日二回目、ひょっとしたら三回目の。

「……先輩、なにを」
「……お前なら、」

いいかもな。言わずに飲み込んだ言葉を察したのか、手のすぐそばにある剣城の耳が、驚くくらいに染まっていく。

「……は、反則……」
「言っとくけど、お前の不意打ちも十分反則技だからな」

顔を隠して呻くのに、ぶは、と吹き出した。恨みがましい目つきは見ないふり。ついでにチャイムも聞こえないふりをして、剣城のすぐ隣に再び寝そべった。